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父とのカフェは意外と心地よかった話

こんばんは。突然だが、他人の不幸は蜜の味と科学的に証明されていると知った。これからする話はいい感じの話のため、読んでいてつまんねえ、おもしろくねえ、と思う方もいるかもしれないので、万が一読む方にはご了承願う。

今日、初めて父と、私の大好きなカフェに行った。一つ一つの出来事が今の私にとってはとても大切なものだから、ここに記しておく。

父は仕事が忙しく、自転車操業のように、一人の社員が辞めてから土日も仕事をしている。土日は家に帰ってきてからは競馬をしているので、このコロナ禍ではまさに巣ごもりの第一線で活躍をしている。

そういうことなので、おやつの時間の15時にカフェで合流してから注文に至るまで、なんだか感無量で、人生で初めて一緒に行けたことに不思議な高揚感と、感動さえ覚えた。

あの出不精の父が、カフェにきている、と。

父は朝昼を食べていなかったので、コーヒーとシフォンケーキを頼み、私はチャイを頼んだ。待っている間、そんなに話はしなかった。時たま、ここでさえ父は競馬をしていたが。

たまにはいいでしょ?と聞くと、共感を得てくれた。それがなんとなくうれしかった。ハードワーカーな父にそう言ってもらえたことが、かな。

あとはバイトの話、私立公立高校の現状の話くらい。小中高は滋賀なので愛知県の受験事情はあまり知らないが。

オーナーの方には、父がお手洗いに行っている時に、

かっこいいね。良いお父さんだね。なんか、話しやすそうだね。

と3回ほど言ってくれた。私も、そうですか?と若干嬉し気にお話した。そう返したのはなぜかというと、その意味がなんとなくわかったからだ。

というのも、今週は週4でこのカフェに行った。オーナーの方ともたくさん話した。(15日でクローズだからというのもある。)だからこそ、ここで、その言葉たちの意味を以心伝心に共有できたのは、ある程度波長が合うということになる、はず。

その場で言葉のニュアンスを受け取ることって、普段自分が考えていることや、使う言葉と関係していて、だからこそ、共有できるものがあると、これを書いていて改めて認識している。

話は戻るが、競馬と娘とのカフェを天秤にかけて一緒に行ってくれたことには感謝している。

ここでも、空間と時間を、この瞬間を、周りにいる常連の方々とオーナーと父と私で作って共有できたことが嬉しかった。

この嬉しい、楽しい、不思議、幸せ、といった感覚を、どのようにしたら表現できるのだろうと日々思ってnoteを書いている。

思ってることを言語化したいのに実際に書くと、実体験と結びつかないこの苦しいようなもどかしい気持ちはどこで昇華できるのだろうか。


書いているうちに、言語化できるようになるとは思えない。本や論文のインプットなのだろうか。

これからこの先、自分自身で納得して文章を書くことができるなんてあり得ないんだろうなと思う。

納得しても次を求める、その欲深さというか、その感じは、幸せを追い求めること、良い環境を求めることの過程と同じなのだろうか。

思っている暗い話を、書きたい!とか思ってはいても、それが今ではないんだよなあっていう、タイミングの話なのか、小説家気分で書きたいのか、よくわからないまま思うままに書いている。

追い求めた先には何もなかった、ただ生きることへの疑問が残るばかりだったと茫然として書き綴った有名人もいる。

何かを追い求めることは人間の進歩という名の過程なのだろうけれど、なぜ生きるのか、人間は存在しているのかを自然の摂理以外に説明できる人はいないのだろうか。

太古の昔からあったなぜ生きるのかという問い。

誰もが口を揃える。誰もがこれはこうだとこたえることのできるようでできない問い。

哲学者って実践的じゃないよなあ、と考える日々だ。

グラデーションのように明るい話から方向が変わった話になったが、今日はこれで。

P.S.他人の不幸が蜜だと思うならば、自分の幸せを考えるために時間を使おう。


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