陽性:1/9

PCR検査の結果が出るまでには中二日はかかると言われていた。かつ私は金曜日に検査を受けたので結果の連絡があるのは土日祝日が明けてからだと思っていた。仕事の関係者にもそのように報告していた。この日の朝にK病院から電話が入った。電話口の医師は「陽性です」とハキハキした声で私に伝えた。「え、陽性?陽性ですか?」と私は聞き返してしまった。医師は「はい。保健所には連絡済みですので、連絡を待ってください」とだけ言うと電話を切ってしまった。自分が全く想定していなかった状況に、私は頭が混乱してしまった。まずはこのことを伝えなくてはいけない。でも誰と誰に伝える必要があるんだっけ?

仕事の関係者と両親に連絡をした。そこからのこの日のことは、あまり良く覚えていない。仕事と両親、保健所からの連絡が代わる代わる入ってきて色々なことを確認された。保健所からの連絡は多くが断片的で、必要最低限のことを伝えたらすぐに電話が切られてしまう感じだった。保健所から言われたことを仕事関係の人々や両親に伝えるとわからないことが増える。その確認のために保健所に連絡を試みる。しかし土曜日は保健所も電話受付をしない(業務はしている)。なので仕方無しにコールセンターに電話をする。するとコールセンターからまた違う連絡先を教えてもらい...と、混乱しているのは私だけではなくあらゆる関係者が混乱していることがわかった。保健所が私に電話をしてきたタイミングでこちらから聞きたいことは全て聞いておかないといけない。これはなかなか大変なことだった。

コロナウイルスに感染したことが判明したので体調の経過観察は重要な事となった。よく言われているように急激に症状が悪化し、手遅れになることが多いためだ。この日は熱も下がり、頭痛などその他の症状もない。呼吸も正常にできる。しかしそれでも私の中に大きな不安が生まれた。

自分の身体で起こる些細なことで緊張感が高まる。鼻水が出れば体温が上がっているのではないかと考える。喉が渇けばウイルスが活発になってそれが致命的なことになるのではないかと考える。軽く咳をしただけでも自分の肺になにか良からぬことが起きているのではないかと疑いを持ち始める。また、夜寝ている間に呼吸ができなくなるかもしれないと想像するとそれだけでうまく眠れなくなる。少々大げさだと笑われるかもしれない。しかしそれが正直な気持ちである。寝ている間に呼吸困難に陥り、誰にも助けを求められずに暗い部屋で孤独に死んでいく。村上春樹の小説の世界ならばそのことをスマートに、時には美しく描かれるのかもしれない。しかし現実は古いアパートの部屋で苦しんで死んでいくだけのことだ。その景色は想像するだけで空寒いものがある。

新型コロナウイルスがその他の感染症と比べてどのような違いがあるのか?それは本当に従来のウイルスに比べて恐れるほどのものなのか?私ははっきりと怖さを感じている。新型コロナウイルスが従来のウイルスに比べて強力かもしれないから怖いのではない。よくわからない病気だから怖い。大事なのはウイルス学の話だけではない。このウイルスは間違いなく人の心を恐怖に陥れている。そしてこの恐怖をどう乗り越えればいいのか。どうすれば乗り越えることを手助けできるのか。

そしてこの日、身体にはっきりと異変が出ていることに私は気がついた。食べ物の味と匂いがまったくわからなくなっていたのだ。

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