第一の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)
フィンランド、という単語のひびきを、くちのなかでしきりに転がしてみると、なんだか不思議なきもち、そういう名前でよばれる国が、この世界に存在すると知ってはいても、じっさいに行ったことはないから情景がともなわなくて、がらんとしたことばの骨ぐみは、純粋な音の反響としてのみわたしのそばにある。その状態であるというだけで、わたしはもう満たされて、歴史、風俗、観光資源、そうした実在の《フィンランド》にまつわるこもごもには、さほどは興味をそそられずにいるのです。言語がさししめしているもの、背景につつみこんでいるものをシニフィエ、表出されている言語じたいをシニフィアンとよび、さらに両者がひとそろいに結びついたすがたをシーニュという、いつだったか講義でならった気がしますけれど、よくおぼえていません。あなたならご存知でしょうか。
なんらの交流をもつこともなくいままで、それぞれの土地で二〇年あまりの歳月を生きてきて、現状インターネットの画面ごしでしかお話をしたことのない相手におたよりをしたためるには、どのような形式をとったらいいのか、まだはっきりとはつかめない。
輪郭のおぼろげなあなたは当然ひとつの固有名をもち、わたしはその名まえを存じあげてはいるけれども、記名してしまうのがためらわれるのは、明確な像をむすばずにいるために生じてくる、うけとり人の不特定性がきえさってしまうことを、惜(お)しいとかんじたからでした。そこでひとまずわたしは手紙の対象を《あなた》とよびならわし、個人としての存
在に文字をさしむけるていをよそおいながら、無数の他者にも声をかけていたいとおもいます。
あくまでこれはわたしのばあいであって、あなたはどのような返信のしかたをとっても構いません。応答のくりかえしによって、わたしの文面もすこしずつ変わってゆくだろうと予想します。
インターネットですこしだけ、《フィンランド》を調べてみました。白地に、青の十字がえがかれた国旗の、交差する縦の線は、旗の中央からこころもちひだりにずれていて、つまりは左右非対称の図柄なのですが、どうやらこの形式は、スカンジナビア・クロスというらしい。青は湖と空、白は雪をあらわす、人口はおよそ530万人、と、ここまで調べてわたしはムーミンシリーズの作者が、この国の生まれであることを唐突におもいだし、マシュマロのかたまりのようなずんぐりとした胴体に手と尻尾をはやした、顔のながい生きものが視界にたちのぼってきて、なんだかいっきに脳裏はにぎやか、まっしろなHattifnatt(いわゆる《ニョロニョロ》を、スウェーデン語の原文ではこういうのだそう)たちが地面からつきでているようすなどもたてつづけにやってきて、けっきょくわたしはいつまで経ってもこの国にたどりつけない。
ここはおとなしく母国に籠もって、あなたの詳細なお返事をまっているほうが無難かもしれません。出発の日どりがきまったら、またおしえてください。
2021・8・2 久坂 蓮
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