“自分の子”フィルター
こんにちは😊
nemunoと申します。
またまた親子関係のお話です。
前8/9の記事で『“自分の子”というフィルター』という言葉を使いました。自分でパッと思い付いて何気に書いた言葉ですが、記事を出してから何か気になる・・・
こういう時は深堀しましょう❗
『世間の常識』の中には、「子が親に甘える」と「母親は自分を犠牲にしても子の為に頑張る」というものがあります。ドラマや小説はそういう前提で成り立っている事も多いです。私自身、そういうもんだと思っていました。
私は自分の事をまあまあ常識あると思っています。他の人の事は尊重しようと思っているし、自分がされたり言われたりしてイヤな事は、したり言わないように心掛けています。
《8/9記事より抜粋》
この問題が起きるまでは子らに対して、一人前と認めていないところがありました。キチンとできていないところをアラ探ししては「まったくもう💢」と言ったり思ったり。
“対等な個人”とは見ずに“自分の子”というフィルターを通してしか見ていなかった。
自分の子だからといって、尊重しないとかアラ探しするのは間違っています。正しくない。
《もっと詳しくはこちら👇》
なのに何故こんな事をやっちゃうのでしょうね。我が子にだけ“対等な個人”を当てはめないのは何故?
我が子は特別です。産まれてくれてありがとう。眠ってくれた、食べてくれた、笑ってくれた、そんなことが嬉しかった。
でもそれはいつまでだった?
子どもを育てるのは本当に大変です。圧倒的に気力体力が削がれます。余裕が失くなる。そうすると、なんで寝ないの?なんでお友達とケンカしちゃったの?テスト間違えた?そんなことも解らないの?という思考が出てきました。
子が幼い時は未熟です。経験を積んでないから失敗する事はあって当然なのに、失敗はダメな事と思ってしまいました。幼いながらも意思や感情はあります。解っていたはずでした。でも日常に追われて、子に寄り添うよりも自分の都合を優先する事が増えていきます。更には、頑張っていることを評価せず、出来たか出来ないかに囚われて出来ない事を指摘する・・・自分がされたら一番イヤなパターンです。でも少しくらいキツく言っても、それでも子は私を慕ってくれました。だから私は「子の為に言ってるのだから解ってくれてるよね」と都合よく思い込んでいきました。
そうして、他人にはできる「対等な個人として尊重する」という感覚が、子らに対しては薄れていってしまいました。
これが『自分の子フィルター』が出来る過程だったと思います。
幸い子らの反抗期と、進学を機に別に暮らすようになったお陰で、少しずつ上手く距離を取れるようになったと思います😊。
私は当時頑張って母親業をやっていましたが、自分を犠牲にする母親ではなかったし、私の方が「このくらいいいよね」と子に甘えていました。子らは時を経て大人になって、今では全く私に甘えてくることはありません。『世間の常識』は私には当てはまりませんでした。
でも程度の差こそあれ、私のような感覚を持つ事は割とあるように思います。未経験な状態で母親になるのですから、間違えることも失敗する事もあって当然です。自分の間違いを認め、改善することこそが大事です。
ひろの式カタカムナをやるようになってから「失敗はダメな事ではなくって、上手くいかない経験をしたんだ」と心底思うようになりました。
ひろの式カタカムナの第80首の訳に
「白黒」「善悪」対となる両方を知っていることこそが、人生。
世界は、全てを含む。いいことも悪いことも、全てを包み込む。
そのような世界と知ることで、自分の魂がより強くなる!!
というところがありますね。
ダメな事もしてきたけれど、これからはその分、いい事を積み重ねていけばいいと言われているように感じます。
家族には「大好き」「あなたが大切」「ごめんなさい」「ありがとう」という言葉を、いっぱいいっぱい伝えるようにしていこうと思います☺️
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