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推しが神格化されていく

春クールのドラマ、『生きるとか死ぬとか父親とか』にこんな場面があった。

主人公・トキコ(吉田羊さん)は父・哲也(國村隼さん)に、亡くなった母を神格化して父子関係の調和に利用していること、母もまた人間であり、生前寂しさを抱えていたことを指摘する、というもの。


ひとは亡くなると神格化される。○○大権現みたいなかたちで祀られるわけではないけど、かなりの割合で聖人として語られて、どこか神々しいものとされる。

わたしが推していた女優さんは昨年の9月、自ら命を絶った。
その女優さんの後を追うかのように、その年の秋には女性の自殺者が急増した。

だからなのか、その女優さんの死の詳細についてテレビや新聞などで報じられることは少ない。年末によくある、新聞やワイドショーのお悔やみ特集的なやつでも見かけることはなかった。

世間から忘れ去られていく気がした。
それではいけないと思ったわたしは、彼女の主演ドラマや映画を観ることにした。いざ観てみると不思議と悲嘆の気持ちは沸いてこなかった。
むしろ、映像のなかで輝くその姿が神々しくみえてきた。

こうして、わたしの中で彼女は神格化された。

それと同時に、小学校のときの記憶がフラッシュバックした。


あの頃、夕方に再放送されているドラマが観たかったわたしは、テキトーに理由をつけて友だちの誘いを断って直帰していた。
学校が終わると鬼ごっことかサッカーして遊ぶのが当たり前だった風潮のなか、断りきれないこともあったけど、とにかくドラマが最優先みたいな時期があった。

観たかったドラマのひとつが、彼女が主演していたもの。いまとなってはあらすじすらほとんど思い出せないけど、たしかに好きなドラマだった。

人生ではじめて自発的に視聴した実写映画も、彼女がヒロインのものだった。
当時は推しとか好きとかいう感情もなしに観ていた。だからずっと、忘れ去られていた。

そんな記憶たちが、彼女の死によって呼び起こされたのだ。

地方空港のスタッフに扮した彼女が、ターミナルのあちこちで悪戦苦闘する姿を描いた作品がある。彼女の出番とセリフがとにかく多いその作品をあらためて見返しても、やっぱり悲嘆や落胆よりも「ありがたみ」を感じた。

映像のなかでは、彼女は永遠に彼女のままだ。劣化することもなければ、いまやボタンひとつでいつでもその美しい姿に出会える。

そんなの、絶対に神格化してしまう。

『隠し砦の三悪人』をはじめて観たときに「三船敏郎ヤベェかっこいいすごいなにこれまじか…(絶句)」ってなった経験と非常に近いかも。

いけないことかもしれない。個人を個人として見つめてないんだもの。

だけど、観るたびどこか元気をもらえるし、そこに「永遠」を感じてしまう。信仰の一種かもしれない。他人がこんな状態に陥っていたなら気味悪く思ってしまいそう。

それでも、忘れること、悲嘆にくれることよりはずっとポジティブな考え方だと思うんだ。

なにしろ、そのひとが実際どうだったかなんて、芸能界から縁遠いわたしには永遠に謎のままだ。謎なら謎なりに、おとなしく、シンプルに、謙虚に推す。それしかない。

そうやってストイックでいられるなら、推しの神格化も、そこまで悪いことじゃないのかも。


さて、ことしの夏は『サイドカーに犬』でも観ようかな。

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