休むことはもう恥ずかしくない
ひとはなかなか休むことができない。
どれほどつらくても。しんどくても。
誰かのかけがえのない存在であればあるほど、休むことはできなくなる。
役割を放棄した人間は人間ですらないように思われてしまうような現代において、休むとか辞めるハードルはなかなかに高い。
そんな現状に一石を投じたのが、このたびの深田恭子さんのニュースだと思う。
星野源さん&新垣結衣さんの結婚でひととおり盛り上がって、ワイドショーのネタが尽きてきたころ、ちょうどこの一報が飛び込んできた。
決して暗いニュースでもないし、過剰に報道されるべきものではないのはたしかだ。
けれど、彼女のその「決断」によって、弱音を吐くことのできなかったひとや、それが弱音かどうかすらもわからなかったひとたちに、「休んでもいいんだ」という強いメッセージを伝えることになったと思う。
「あの深キョンでさえ休むんだもん、わたしだって休んでいいよね」って思うひとが、きっと出てくる。
とはいえ、深田さんにとっては、「あの深キョン」と形容されることなく、ひとりの芸能人としてみられることを望んでいるかもしれない。
そのあたりのことは、深田さん本人にしかわからない。
とにかく言えることは、彼女はたしかにしごとをしたということだ。
休むというしごとを。
そして、休むこともしごとだと伝えることで、女優という、いわば「不定休」の職業人が単なる偶像ではなく、ひとりの人間であるということを多くのひとに気づかせることになった。
昨年の9月、わたしは大好きな女優さんの「死」の一報を受け、会ったことも話したこともないのに、この上ない喪失感を味わった。
もう、誰にもあんな経験はしてほしくない。
これ以上、「芸能人を殺す国、ニッポン」にならないために、芸能人という究極の「感情労働」のあり方について、考えてみてもよいと思う。
そして、芸能人ではないわたしたちも他人事ではない。
身の回りを見わたせば、いつ休んでるかまるでわからないひとが目に入ると思う。
そのひとたちに、「休めてる?」って声をかけたり、休めるように気にかけたりすることは、専門的な知識がなくてもできることだ。
誰もがセラピストにはなれないけど、セラピストに相談するきっかけは作れる。
休むことは、恥ではない。
場合によっては、休むことだってしごとのうちだということを、この先、何度でも言っていきたい。
ほんとうにしんどいとき、ひとは自分のしんどさに気がついていないことがある。
だからこそ、その「しんどさ」に気づき、やさしくできるわたしでありたい。
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