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『偶然と想像』を想像する

濱口竜介短編集『偶然と想像』を観てきた。

ひとことで表すと、


好き。

ほんとにもう好き。すごい好き。

ハマったポイントと考察したことについて逐一書いてると、1万字は軽く超えてしまいそう。

ということで今回は、解説や考察よりも手前、それこそ「想像」と題して、個人的にグッときたポイントを書いてみたい。


※鑑賞した方もそうでない方でも問題なく読めるように書いてみます。頑張ります。

予告編の説明不足感ハンパない。下手なあらすじ紹介はネタバレとなりかねないような映画だからこそだ。


①洗練された会話劇

現実世界では、会話ひとつで相手のことがわかるなんてことはまずない。


出会うごとに違った顔を見せるその人を、会話というツールを通じて、少しずつ紐解いていく。それこそが会話なのだと私は思う。

かのニーチェだって、「夫婦生活は長い会話である」とか言ってたらしいし。

けれど、映画はじめエンターテインメントは、客にわかりやすく伝えなければならないのが原則(とされている)。
そのため客は、鳥の目になったような立場のもとで、登場人物たちが直面している状況を把握することが多い。


しかし本作は違う。登場人物全員が全員つかみどころがない。

客であるわれわれは、会話のなかでちらつく断片的な情報をもとにして、登場人物とともに、会話の相手の「人物像」をつかんでいく。


それらの過程は、謎解きのごとく独特の非日常感を与えてくれる。
けれどそうした探り探りの会話はすべて、われわれが「日常」で何気なく行っている行為でもある。


こうした会話の面白さ、ゲーム性を、丁寧に表現しているのが本作の一番面白いところだと思う。

登場人物が突然自己開示してくれることがないからこそ、客たちもまた、一瞬たりとも気を抜けない。


われわれはもう、スクリーンを挟んだ会話の参加者になっているというわけだ。


会話自体も、「初見」、「アカハラ」、「IT土方」など、テレビドラマではなかなか見かけることがないことば(というか土方自体が放送コードにかかるとか)を自然に盛り込んでいる。


いわば「どっかそのへんで誰かが話してそうな会話」を丁寧に作り上げているわけだ。


その会話を彩る独特のテンポも軽妙。
時折、アンジャッシュとか東京03のようなコントにありそうな展開がふいに訪れ、物語そのものの軸すらも大きく揺らぐ。


そうして文字通り不意を突かれたわれわれは、思わず声を上げて笑ってしまう。
そして劇場内に、何とも言えない連帯感みたいなものが生まれていく。

これこそが映画体験だと、心の中でガッツポーズした。


②人物描写

とらえどころのない登場人物たちではあれど、決して不自然な存在ではないのも大きな魅力。

はた目から見ると、ものすごい突飛な人たちではある。実際、その突飛さに嫌悪感を抱いたのか、途中で堂々退席される年配の客もいた。


しかし、彼ら彼女らの「言い分」を聞いてると、どこかありそうな話に聞こえてくる。
そしてだんだん、いそうな人に見えてくる。


私はとりあえず、第一話に登場するモデルの芽衣子(演:古川琴音さん)みたいな知り合いを、少なくとも数人知っている。それも男女の別なく。

古川琴音さん演じる芽衣子(左)と中島歩さん演じる和明(右)。


劇中での彼女の行動は、相当怖い。だけど、言語化できない感情を抱えすぎた人物のお手本ともいうような人物描写の完成度だと思う。


ことばが感情を運びきれないことに気づいていながらも、ことばでしか表現できないジレンマ。

彼女はある意味、ことばの犠牲者なのだと思う。だって、「好き」とか「恋」とか「愛」だののことばじゃ感情を表現しきれるわけないもの。


反対に、第二話に登場する文学部教授の瀬川(演:渋川清彦さん)は、ことばの限界に気づいたそのうえで、自己の感情をことばに乗せることに楽しみを見出しているような人物として描かれている。

渋川清彦さん演じる瀬川(左)と、森郁月さん演じる奈緒(右)。

だからこそ、ことば遣いが非常に理知的だし、そのひとつひとつのセリフがわれわれの胸にしみる。


この瀬川という人物、私の指導教員に似すぎていて、観ている途中からなんかおもしろくなってきてしまった。
ということは、なんだかんだでこの瀬川も、ファンタジックな人間に見えて、どことなく「いそうな人」なのである。


鑑賞済みの方もそうでない方も、本作の登場人物と、自分や自分の知り合いを重ね合わせて考えてみてほしい。
そうすると、本作の世界観がグッと身近なものになるような気がする。


さて、ここからはちょっとした感想を。

③偶然に想像を重ねるということ


人間って簡単にとらえられるものではなく、言葉と会話はそれを解きほぐすためのツールである、とでもいうような、濱口さんの人間観みたいなのを感じた映画だった。

この人間観は、同じく濱口さんの作品である『ドライブ・マイ・カー』にも共通していると思う。


そしてなにより、会話に説得力や切り口を与えてくれる補助的なアイテムが、「偶然」と「想像」なのかもしれない


たまたま起きたこと(偶然)によって接点が生まれ会話がはじまり、たまたま起きたことの結果を思い描く(想像)からこそ、会話が進展していく。


しかし、「偶然」という魔法は、人と人を近づけるだけでなく、離れさせもする。なによりわれわれは、「偶然、心臓が止まって死ぬ」なんていう、偶然の恐怖にさらされまくっているからだ。


そうした最悪の場合死に至るような「偶然」の連続で生きているからこそ、われわれはどこかで安心しようとして「必然」を求める。


だからこそ、偶然出会った相手を「運命の人」とラベリングするようなことが起きたり、自己や他者の存在(現存在)に意味づけをしたりする。

わが子にたいして、「お前は偶然生まれてきた」なんて強調する親がまずいないのはそのためだ。


こう考えると、運命とかタイミングとか、そして神とかって、「偶然」の結果について「想像」をめぐらせ、名前をつけたものにすぎないと思えてくる。


人間ってやっぱり、偶然を偶然で終わらしたくないし、偶然のままでは生きられないのだと思う。

なんなら必然とは「偶然に対する想像の結果、意味づけられたもの」と定義できるかもしれない。


一方、映画とはまさに、偶然が必然へと変わる過程を見せてくれるものだと思っている。必然になったその瞬間がラストであることが多い。
たとえそれが不幸な必然であっても。

しかし本作のある場面において、偶然を必然化させようとする過程で、偶然が起きる前から続いていた現実を「必然」として引っ張り出し突き付けてくるような描写がある。

まるで「お前は変われない」とでもいうような。


偶然に想像を重ね、必然を求めることの無力さを痛切に教えてくれる、まさに人間の業の深さのようなものを描いている。


その展開を観た客の多くは、「え、じゃあどうしたらよかったの?」ってなるかもしれない。



けど、映画のなかに答えはない。
だから、われわれで「想像」するしかない。


さぁ、あなたは彼ら彼女らのこれからを、どんな風に「想像」する?


スクリーンの向こうから、そう問いかけられた気がした。



まぁ、こんな風に頭こねくりまわして観なくとも、「なんかよくわかんないけど古川琴音ちゃんがとりあえずすげぇ」みたいな感想でも、全然いいと私は思う。


100人いたら100通りの見方があっていいじゃない。
それこそが映画の魅力だと思う。

だからぜひ、ひとりでも多くの人に観てほしい。

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