三月のこと

 三月に書いた短い文章をまとめました。文字が詰め込まれて、見せる気がないような画像になってしまった。

 画像化は、Wordに書き起こしたものをスクショしているだけなのだけれど、多分このやりかたより簡単で素敵なツールがどこかにはあるんだろうなと思っている。一編ごとに切り分けたものも、毎回投稿するたびに作ってはいて、それはあるようでないようなTwitterにもあげてみている。忘れてないときは。

 こうして月ごとに日付をつけてまとめたのを読み返すと、いたかもしれない人たちの、あったかもしれない記憶を綴じているみたいで楽しいなあ。こういうスタンスで書いていくのも悪くないと思った。二月までの文章は自分の日記がわりになっているものもだいぶ多かったけれど、三月はどうだったろうか。自己本位だった「日記を書く」という行為をもっと整えて、蒸留させて、なにか文芸が取り出せないか、という実験をしていたような気分がする。

 この頃はとりあえず何でもいいから書きたくて書いてて、それが日記になっても詩になっても小説になってもいいんだけどな(もしかして、すごく我がままでめちゃくちゃなことを言ってしまっているのかもしれない。)という考えでいた。
そして形態がなんであれ、文章は読まれたがるものだと思っている。見つけてもらう手段としてハッシュタグが使えるのだけれど、これも結構適当な使い方をしています。気分なので、使い分けてるわけではない。
以前も述べたけど、あまりに詩や歌に対する学が無さすぎるので、「自分の作ったものはなんなんだろ、とりあえず詩と言っておいていいでしょうか」という気持ちを抱え続けている。でも実はこんなに詩にこだわる必要もないんだけどね、なんとなく、ふらふらしているのも不安に思ってしまったからこんな話をしました。
 今、私にとって文章で何かつくるということは、海で拾った貝殻を並べたり、好きな色のビーズを紐に通したり、絵を描いたりしているような遊びをしているのに近しい。そういう遊びの最後には、つくったものを誰かに見て欲しくなりませんか。そんな感じで、たまに読んでいただけませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?