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アルコールで浮き上がる依存感情

深夜に街中で見かける、「どうしてそんなところでそんな形で寝ているの?」と聞きたくなるような人を見かける度に、自分は絶対”そう”はなりたくないと思ったあの頃。
29歳になった今、お酒じゃないと救えないモヤモヤとした感情があることを知った。今日もそうだ。このnoteもお酒の力を借りて、動いているのか分からない脳みそを駆使(しているのかも分からないほどに酔っている)して、思いのままにキーボードをリズミカルに叩いている。(音だけは軽快で、気持ちは底の底まで落ちているが。)

25歳あたりを過ぎてから、自分が何歳なのか、分からなくなる瞬間があった。分かりたくなかったのかもしれない。ずっと”若さ”を武器にして逃げていたかったのかもしれない。
だけど今ははっきりと、嫌なくらいに見据えている。来年私は30歳になる。年齢は記号だなんて、ちょっと思えないくらいには、迫り来る30という数字を凝視している。

30歳。
もっと軽やかに生きていたかった。足取りを重くしている理由はたくさんある。自分に自分でハードルを課し、「大人」になるために足りない何かを掻き集めては「私はまだまだ子供だ。でもこれから経験を積んで確かな”大人”になっていくのだ」なんて、あまりに幼稚な思考で大人になることから逃げている。

でも、”大人”って?

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数年前、「大人になってね」と始発の電車の中で言われたことがあった。6歳(7歳だったかもしれない)年上のその人は、私の全てだった。全部が、好きで仕方がなかった。ただ、恋でも愛でもなかった。感情にラベリングができず今も思い出の箱にしまうことができていない。
愛情不足やな、と呆れたように笑い私を抱きしめていた人。何でも話したし話してくれたと思う。だけれど私は彼を、彼は私を何も知らない。知ることに何の意味もなかった。
その人は夜の海みたいな人だった。暗くて広くて、底が見えない(と当時は思っていた)くらいに深い。どこからが彼でどこからが私なのか、気付いた時には全身がどっぷり浸かり、もう陸にあがることはできない。あとはもう、沈み落ちていくだけ。それが私はとても心地よかった。どこにでも行きたかったし、どこにも行きたくなかったから、流れのまま身を任せるのは楽だったとも言える。

「大人になる」の”大人”とは何だろうか。成人をとうに過ぎ、納めるべき仕事とお金を納めている私は確かに大人のはずなのに、”大人”が何かが分からない。「自立した大人になるんだ!」なんて思っていたあの頃の私よ。自立なんてできていないし、嘘をつくことだけ上手くなって、無意識レベルで愛想笑いができるようになって、そうやって自分の本心を見失いながら毎日を過ごしているよ。あーあ、つまらない大人になってしまったなあ。でも、”大人”って?”私”って何?ゲシュタルト崩壊。

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毎日隣で眠る恋人は、まるでお風呂のような人だ。彼の体温が伝わって、身体の中から滲むようにじんわりと暖かさが広がっていく。このまま溶けて彼の中に入ってしまいたい、とも思う。
身体に広がる暖かなそれを感じて、私は私をやっと認識することができる。彼がいることで私が輪郭づけられていくのだ。

そして思う。「そこは本当は海かもしれないよ。」「今度もまた、沈んでいくの?」と。
あてもなく、舵も取らず、私はどこに流れつこうとしているのだろう。