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仕事のもつ中毒性について。

・数独とわたし


あなたは、数独をご存じだろうか。

縦・横9マスずつ、計81マスに1~9の数字を揃えていく、あの「数独」だ。81マスの中には、更に3×3の格子が9個用意されている。その中にも1~9の数字を1つずつ並べなくてはならない。何ともニクい設定だ。

別段、パズルが趣味だとかいうことではない。けれど、出張中の機内で、あのファミリーコンピュータを想われるコントローラと画質の粗いモニタを目にすると、暇つぶしに何となく手を伸ばしてしまう。(優秀なビジネスパーソンであれば、洋画を見ながら英語学習に励んだりするのだろうが。)


・世界の”Sudoku”


数と独。一文字ずつ見れば、どこにも前向きさを感じないこのゲーム。それが、なぜだか人の心を捉えて離さない。

実は、数独は日本発祥の遊戯だ。だから、海外でも数独は「Sudoku」である。イギリス留学中も、陽気なお爺ちゃん先生が、休憩時間にせっせと嗜んでいた。そういう具合だから「Sudoku」は、あの「Emoji」に並ぶもっともメジャーな日本語の一つではないか。これが私の見立てだ。


・パズルのような仕事


仕事もパズルのようなものだ。ルールはあるが、ほとんど無いと言っても良い。アプローチ次第で、無限の選択肢を享受できる。

複雑なパターンを生み出すのは「属人性」だ。ほとんどの仕事は、独りでは成り立たない。付加価値創出の過程で、必ず他者が介在する。素直な人、頑固な人、へつらう人等々。ルールブック通りに動かない人々が様々に交錯しあって、今日も世界がドラマチックに回っている。


・評価のある仕事と「ない」仕事


仕事には評価がある。同僚、上司、後輩からの評価。ステークホルダー、家族、見知らぬ第三者からの評価。言葉やお金、地位、名誉。時にはさりげない気づかいによって表現される、評価。演者は、独りではない。未知の難問に一丸となって挑む過程など垂涎モノだ。うだうだと御託を述べながら、なんだかんだと私たちは骨抜きにされている。

家事と育児。この2つには、評価が伴いにくい。以前「育児はクリエイティブだ」ということについて書いたが、そうして意図的に拾い上げなければ、これらの仕事の評価のポイントは日々の間隙に消えてゆく。

それでも、誰かがやらねばならない。では、いったい誰が、どのくらい。21世紀に突入して20年近く経つ。「逃げるため」に作り上げたまやかしの仕事には、そろそろお暇願おう。


・用法/用量を守って仕事と関わろう


意識的に仕事から遠ざかる行為。それは、仕事が出す強烈な麻薬に打ち勝つ鍛錬である。

独りの時は良い。問題は、そうでなくなった時。仕事という液体に漬けられ、ビン詰めのハブのようにエキスを吸い取られてしまわぬように。「Karoshi」なんて言葉を他国の辞書から消し去ることが、多様性を目指す我が国の、当面の目標として丁度いいのではないか。

こんなことを書いておいてなんだが、私は仕事が好きだ。仕事は良いものだと思っている。仕事の無い世界で私は外に向きあえた気がしない。随分と退屈そうだ。要するに、用法・用量の問題なのである。


おしまい。




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・あわせてご覧ください。(家事・育児・夫婦関係系のnote抜粋)



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