自分の「感覚」も大切にしたい、という話。

定量的な裏付けは重要だ。何の裏付けも無しに、「私はこう思う。」「こうに違いない。」「絶対にこうだ。」と決めつけては、健全なコミュニケーションは図れない。「定量的」とは、「数字の」という意味だ。大抵のエラーは、数字がそっと教えてくれる。バブル崩壊も、サブプライム危機も、数字は躊躇いがちに「実は…」耳打ちしてくれていた。0と1との間で、どのようにそれらを「咀嚼」するか。その判断の誤りだったに過ぎない。大抵のことは、数字の進言に耳を貸せば、容易に予想可能だった、という事案である。もちろん、それ自体容易なことではない。結果として気付けなかったとしても、「耳を貸そう」という姿勢は大切だ。極論、事後的にでさえ。それは必要なことだと思う。

「感覚」というものは、とても疑わしい。胡散臭い。私が見たもの、読んだ書物、行ってきたこと。「感覚」とは、疑似を含めた「私の体験」の抽象物である。失敗と成功の数々から、「えいや」と決める試みだ。エビングハウスにならえば、直近の体験ほど、その影響度は大きくなる。例えば、今日の降水確率が50%だった時、傘を持っていくか否か。直近で傘が不要な日が多ければ持っていかないだろう。そうでなければ持っていく。ほとんど全ての物事は、Aかもしれないし、Bかもしれないし、あるいはCかもしれない。0か100かに決まらない。よって、私たちは「感覚」に頼る。ビジネスの場でも、数字はAと物語っていても、「何となく嫌な予感がする」「感覚に合わない」ということで、再検討の上、Bが採用されるケースがある。なぜ数字だけで決められないのか。数字(情報)の限界というものがある。土台、あらゆる変数を加味して思考することなど、人間の脳には荷が重い。さながら経済学の1モデルのように、ある程度単純化して事物を検討せざるを無い。時間の限界もある。私たちに与えられた時間は、言い訳できてしまうほどに短い。1つの数字の真偽を確かめるのにかけられる時間は、ごくわずかだ。

よって、常々「気を付けなければ」と自戒することにしている。ある数字を、「そうに違いない」と絶対視してしまうことだ。自分に都合の良いデータは魅力的で、つい飛びつきたくなってしまう。いや、飛びついている私がいる。けれど、冷静になって考えれば、必ず「そうだ」とデータから判断できるケースは稀だ。例えば、コーヒーは1日1杯飲んだ方が体にいいという人もいるし、そうでない人もいる。肉を食べるべきでないという人もいるし、そうでない人もいる。体を鍛えた方が良いという人もいるし、そうでない人もいる。それぞれの主張に、一応それらしいデータがある。それはいったいなぜだろうか。

よくよく考えてみれば、そのような結論を下すには、他の変数を全てそろえて検証しなくてはいけない。例えば、コーヒーについて調べようにも、その時の被験者のストレス、持病の有無、所得差、気候差、生活習慣、遺伝子レベルでの何らかの影響を排せるだろうか。これは無理だろう。もしかしたら、スーハーと呼吸する空気の中に、触ったドアノブに細菌がいたのかもしれない。これらの影響を、大数の法則だけで抽象化した結果、同じ命題に2つの主張がつきまとうのだと思う。もし、そうなのだとしたら、この先AIがどれほど発達してもこの議論が終わることはないだろう。そのためには、全く同じ生物を作るしかないのだ。これは、無理だろう。対照実験できないのだ。何も人の嗜好の話だけではない。あらゆることに、こうした変数がついて回る。

よって、私は不確定な「感覚」というものを、不本意ながら一定程度取り入れることにしている。世間が「右だ」と数字で主張する時、「左かもしれない」と感覚的に考えるようにしている。有機的な感覚と、無機質な数字の間で「どのように揺らぐことができるか」について考えるようにしている。といって、そのつもりになっているだけかもしれないから、「『感覚も大切にしたい』と心掛けるようにしている」と言おう。そのような姿勢さえ保てなくなってしまった時、私は「老いた」のだと思う。しかし、当面そのことには気付くまい。何年か経って、ひょんなことで、ぽとぽと垂らしたたくさんの点を一気に振り返る時、「ああ、私はあの時老いたのだな。」と気付くだろう。それが、幼いわが子の何気ない一言であれば、これ程幸せなことは無いのだが。もう数年、こういうことを大切にしていたいなと思う。バランスできる人でありたいと切に思う。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)