文章を書く時に気をつけていること④

「…で、オチは?」

期待と失望を足して2で割ったような、たった4文字のセンテンスに心折られそうになった経験はおありだろうか。(私はよくある。)

日々目まぐるしく繰り広げられる日常会話において、テレビの向こう側で展開される同時通訳宜しく、いちいちオチを考えながら話すことなど考えただけで苦痛の2文字だ。関西地方においては、ともすれば、考えたオチの良し悪しで賞与に差が付くインセンティブ制度でも導入されているのではないか?と勘ぐりたくなる。オチへの飽く無き探求心は、もはや1つの(無意識的に行っているという意味での)才能として、あまねく関西人のコアコンピタンスの一角を形成しているのではなかろうか。

そんなことを言いつつも、一方で我々は期待してしまう。お笑い番組を目にする時、松本人志は、千原ジュニアは、宮川大輔は、ここから一体どう"落とす"のか。これは全くの余談だが、「ざっくりハイタッチ」という番組で、予算を使いきった番組サイドが、芸人4人にリレー形式で約30分フリートークをさせるという非常に無茶な企画があるのだが、その中で、千原ジュニアがアンカーとして残り時間の帳尻を綺麗に合わせ、毎回気持ちよく落としてくれる神がかり的なテクニックを垣間見ることができるので、ぜひ一度ご覧いただきたい。

さてさて矛盾するようだが、オチによって掻き立てられる脳内の快楽物質を味方につけられれば、これ以上心強いことはない。幸い、即興で繰り広げなくてはならない「会話」と比較し、事前に用意できる分、文章のハードルは少し下がる。何より、結びまで読み進めてくれた読み手側は、書き手の意図を汲むことに協力的だと推察されるため、私一人が気を吐く必要も無い。

私は、文章の結びを「エンドロール直後の映画館」のようなものだと捉えている。結びは結論から生じる余韻であり、作品と現実世界とを結ぶ架け橋だ。様々な表現を交えてイメージを掻き立てた本文は、全て結びの余韻を味わうために書かれると言っても過言ではない。これまでの過程を経て、どのように読者に心理的変化を及ぼしたいか、もっと言えば、読者にとり、単なる仮想の物語であった文章を、どのように現実世界へ、未来へと振り向けるかという役割を結びは担う。

勿論、単に「情報を伝達する」という観点でみれば結びの文章は不要ということになる。例えば「これといって特徴の無い人間が、同期の『代表』になっていた話。」という文章の結びは次のようになっている。
***
特徴の無い人間には、特徴の無い人間なりのやり方があるものだ。そのやり方を継続した先に、「特徴」というものが出てくるのだろうか。そんな実証実験を、もうしばらく続けていこう。
***
ここでは、最後の一文が明確に余計である。前文を「『特徴』というものが出てくる。」と言い切れば、情報としてはそれで十分だからだ。しかしそれはあまりに無味乾燥で、一方的な情報伝達のやり方だ。人になにがしかの変化や行動を促す時、コミュニケーションは双方向的でなければならない。「困ったら『場所当たり』してみよう、という話。」にも似たようなことが言える。
***
貴方にとっての「三上」はどこだろうか。昔からの言い伝えを1つや2つ組み換えたとしても、バチは当たらないだろう。今のご時世、少なくとも馬に股がる機会など、そうそう有りはしないのだから。

もし、その1つが「喫茶店」なのだとしたら、未だ見ぬ貴方とも良い関係が築けそうだ。
***
この最後の2段落は新たな情報を与えない、不要な文章だ。それでもこれらの表現がなければ、文末は非常に淡白な印象になる。大仰に言えば当事者意識を読者に与える上で「情報としては無価値だが熱量を帯びた結び」が必要であり、それこそが文章を文章足らしめる本質なのではないかと思う。

文章を書く時、私はまず、結論(一言でいうとこういうことだ!)を考え、それをイメージできそうな比喩をいくつか考え、その比喩と相性の良い結びを考える。それから初めて、あーだこーだとツラツラ書き始める。それは、後からその辺りの辻褄を合わせようと思うとなかなか上手くいかず、せっかく書いたものをバッサリ削り取る、何とも切ない作業に従事することを余儀なくされるリスクをできるだけ回避したいからだ。

勿論、例外もある。例えば「後輩Aの話。」では、たまたま冒頭から順に文章を書き進めることができた。しかしそれは私にとって極めて稀なケースであり、投稿した後に「やはりこちらの方がゴニョゴニョ…」と結びの部分を書き換えているのが現実なのだ。これは著者の技量に大きく左右される部分であり、苦労無く書ける方は最初からどんどん書けば良いと思うが、ゴニョゴニョしたくなる方は、最初に骨格を決めた方が書きやすい。骨格すら書けないのなら、そもそもそのテーマは未だ熟していないのだ。別のテーマを書いた方がよほど生産的だ。お腹が痛くないのに、トイレに籠っても仕方ないのである。

いかがだろうか。これまで記載した①~④により、貴方の書く文章は、貴方らしさの輪郭を帯びそうだろうか。「なんだ、テクニックが無いことから目を背けた見せかけの話じゃないか。」というまっとうなご指摘は、しかしながら一度胸のうちにしまって頂ければと思う。貴方さえ気づかなければ、そのような些末なことに気づく人はあまり多くは無いものだ。現に、私の文章には見出しも無ければ、映える画像も、親切なリンクも、何も無い。そこにあるのは、①~④に記載した極めて凡庸な試みばかりだ。

テクニックの無い人間には、テクニックの無い人間なりのやり方というものがあると信じている。そのやり方を継続した先に、私なりの「テクニック」というものが出てくるのではないか。そんな実証実験をもう少し続けてみよう。実験の答え合わせを他者の文章で試みる必要など無い。貴方の文章は、貴方が集めた材料で貴方が作る、貴方だけのものだ。

「文章を…」シリーズ 番外編へ

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)