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傾きと切片と人生。

y=ax+b

数学が好きではない。さしたる思い入れも無い。数学の話をしたいわけでもない。それでも、義務教育課程、つまり大半の日本人が学んできたこのシンプルな方程式は、綺麗だと思う。


幼少期、私は「勉強する意味が分からないまま勉強していたタイプ」の子供だった。

「こんなことを習っても、仕事で使わないんでしょう。」

そういって、目の前の厄介事から逃げたい少年だった。

コンピューターが記憶し、計算してくれるのに、なぜ勉強が必要なのか。そういう疑問を呈しては、ついに明確な解答を貰えたことも無かった。

「教育とは、学んだ知識が無くなった後に残るものだ。」

それらしい言葉を極解し、当の命題は証明されたもの、と確信していた。

確信というか、盲信である。肝心の「証明」の仕方さえ理解していたかどうか、今考えれば怪しい所だ。


社会人になり、高等学校で習う知識くらいは修めておいて損は無い、と遅ればせながら感じるようになった。確かに、コンピューターは勝手に計算してくれる。それでも、計算の原理や前提を理解しなければ、そもそも「自分の指示」それ自体が正しかったのかを、理解したり確認したりすることができない。

そもそも適切に指示すること自体、できないのかもしれない。コンピューターは恐ろしく正確に素早く解答を導くが、そこに投入するデータや前提が正しいか否かはまた別の話だ。IOT・RPA・AI等とそれらしい文字が薔薇色の妄想を掻き立てるけれど、それらは正しいナマのデータあってこそである。テクノロジーの未来を握る鍵は、そういうアナログな変数ではないかと勘ぐってしまう。見栄や体裁以前の話である。


時々、人生をあたかも目の前に敷かれた「一本の線」を辿るものであるように錯覚することがある。何をやっても上手く行かない時(あるいはその逆の時)に、ついついそう誤解する。

傾きaも切片bも滑らかに変化しつつあったことに気付くのは、それからもう随分と先のことだ。元の線では決して交わりようもなかった点に幾つかぶつかって、漸く「ああ…」と今が見えてくる。その連続でできた折れ線が「人生」だった、という結果論だ。

といって、悪いことばかりではない。方程式のaとbには、好きな数字を代入できるチャンスがある。勿論、紙に「a=6, b=1」等と書いてみても、上向きの直線は描けない。機会を我が物にし、望み通りの線を描けたかどうかは、そういうつもりで生き始めて、随分あとになってわかる。

連続的な変化は、時にxを幾つかバラバラと追加して、曲線を形作り得る。30年間の軌跡は、ボコボコとしていて武骨な、決して「綺麗」と表現できるものではないが、悪くない方程式だなと思う。

人生に微分は無い。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)