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膠原病のサラブレッド〜難病と診断されて

今回は私の家族について書こうと思います。
医師からは遺伝性はないと言われていますが、
私自身は、膠原病と言われた時、『やっぱりきたか・・・』と思ったので、
ないことはない。
と、思っています。

私と3人の母

現在私の戸籍上、母が3人おります。
私を産んだ実母。
主人の母である義母。
主人の母の友人である養母。

今回出てくる母は全て実母となります。

養母???とな?
となるかもしれませんが、こちらはまた後日譚で、機会があれば披露します。

私の両親


私の父は1人ですが、昭和の名俳優みたいな生き方をしていて、
異母兄弟が4人います。
と言っても、関係性はほぼありません。
会ったこともなし。

父は昭和5年生まれ
母は昭和33年生まれ
この地点で28年年の差夫婦です。

母曰く、婚姻届にハンコ押すまで気づかなかったと・・
そんなアホな??と思いますが、この時すでに私がお腹にいたので、
押すしかなかったと。
よくわからない言い訳なのですけどね。

父が膠原病のバセドウ病(亢進症)と診断されたのは73歳の時でした。
60歳くらいの地点で発症はしていたのですが、当時の医学ではバセドウ病は女性が9割の発症率だったので、なかなか診断がつかずがん検査ばかり受けさせられていた記憶があります。
検査入院ばかりの日々だったのですが、ようやく診断が出た時は驚きました。
当時の先生すら驚いていたくらいでした。
わかってからは、薬の効果もあり結果83歳の天寿を全うするまで元気に余生を過ごしていました。

母は、私を出産後関節リウマチを発症。
最初に気づいた時には、椅子に座った形のまま倒れて動けなくなったと言っていました。
当時はその気があるから気をつけてね。
くらいの診断だったそうで・・
その後、関節リウマチの確定診断が出たのは、私が6歳くらいの頃・・・
(母34歳ごろ)

その後の母の病状は悪化の一途でした。
ちょっとしたことで、痛いと叫ぶし、人の足を踏んでも謝りもせず痛いといって
どついてきては、また痛いと言う。
理不尽極まりない母でした。
今から思えば、関節が変形するほどの痛みやから、
そりゃ痛いだろうけど・・・
子供はどついたらあかん!!

そんな私も小学校4年生ごろには母よりデカくなり、
母に刃向かえるようになってからは、どつかれることも少なくなり、
少し心が楽になっていました。

当時のリウマチの薬はといえば、
漢方薬や鎮痛剤がほとんど・・痛みに耐えるしかない状況だったと母は言っていました。

リウマチが劇的に改善仕出したのは生物薬学的製剤が出だした頃。
新薬が大好きな今のお医者様と出会ってから、
母の病状は少し回復傾向に見えました。

その頃には私もいい年になり、親元を離れて生活していたので、経過は1ヶ月に一回程度里帰りするときに見ていたのですが、
更年期を迎えた母がいきなり肥え出したのです。

母の身長は149cm。体重は38〜あっても42kgくらい。
そんな母を見続けてきた私には衝撃の光景でした。
母が二重顎になってる・・・!!!

食もかなり変わっていて、
今までは脂っこいものを食べると、すぐに下痢になってトイレを占領するような母が、
焼肉を所望するようになっていて・・・
まあ、今まで食べられなかったんだからいいかと連れて行きましたよ。
その当時で56kgくらいあったと思われます。

でも、しわくちゃだった顔はピンとハリが出て若返ったし、
痛みがなくなったんでしょうね。
よく笑うようになったのを覚えています。

薬が効いて、食欲も出て体重がのったから元気になった。
そんな感じで母は良くなっていきました。

父の死

ここにきて、父が天寿を全うし先に旅立ってしまったことで、
母は一度精神的に子供のように戻ってしまうのですが、
こちらもできる限りの手助けと、
公的機関への働きかけで、生活を安定させます。

当時私は25歳くらいでしたが、全ての事務処理、相続登記、遺産相続を1人でこなしていました。よくやったな〜と今でも思います。

その後母はやはり体調を崩しやすくなり、退職し年金生活へ。
十分生活していけるだけの遺族年金があったので、
それは良かったと思います。

その体調不良もあり、医師から「障害者手帳の申請をしてみないか」と言われました。
元々の関節リウマチによる関節の変形、癒着により親指はありえない方向へ曲がるようになっていたり、杖がなくては歩行困難であったこともあるので、
医師による診断書を提出して、
審査待ちに。

結果は身体障害者1級で手帳が交付されました。
発症から24年経った年でした。
今では、2年に一回ですが更新の手続きをしています。

そして、娘が難病と診断され・・

私がSLEと確定診断されたのは、2023年10月。

初めは、会社の健康診断で見たこともない所に、尿タンパク3+と書かれていることに気が付いたのがきっかけでした。

特に再検査とかは言われていませんでしたが、主人に相談したら「すぐに医者に行こう!」と言われ、いつもの内科へ。
やはり尿検査に引っかかり、すぐに大きな病院へと、今の腎臓内科に紹介状を書かれました。

ここでも、奇跡があったのですが、
県内に腎臓内科はがある病院は3つしかなく、最短でいける病院は今入院している病院のみ。
他二つは、初診が2ヶ月後・・・
初めは近くの病院へ行きたかったのですが、
ここでも主人に相談すると、「すぐにいける病院へ!!」と言われ、慌てていつもの内科へ連絡したのを覚えています。

この時、2ヶ月を待っていたら・・・きっと私は倒れて緊急入院していたでしょうね。

この時の紹介状を持って今の主治医に会いに行き、
すぐに両親の病歴を話したところ、すぐに追加の血液検査を行われ、
1時間も経たないうちに「SLEの可能性があります」と言われました。
この地点で、抗体が異常な数値だったみたいです。

一旦、次の予約をしましたが、その4日後には先生から直接電話がかかってきて、
腎生検への誘いでした。

その地点で母にも電話をしましたが、SLEのこともちゃんと知っていました。
膠原病になったことで一連のことは調べていたようです。

今となっては、痛みやつらさも無いまま病気が発見され、即治療に漕ぎ着けられたこと自体奇跡だと思っています。

入院当初から「なんで私はここにいるんだろう??」「元気なのに、なんで病院にいるの?」と虚無感が強かったのですが、今はそんなこともなく退院を楽しみに過ごしています。

腎臓内科の先生も、「尿蛋白だけでSLEの患者さんが見つかったことはないです」と、言ってましたね。
「私も逃げ切ったかな〜と思ったんですけどね〜」と、笑って言ってました。
SLE自体稀な病気ですけどね。

こうして私とSLEのお付き合いは始まったのでした。

サラブレッドについて

私の父はその昔大阪の東大阪、心斎橋、北新地にてサラブレッドという喫茶店をしていました。
自分が午年なのと、大の競馬好きもありその名前でずっとやっていたと言っていました。
今回のお題は、亡き父の大好きだったサラブレッドにかけて付けさせていただいた以外の意図はありません。
血統という意味では、しっかり引き継いでいますので。

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