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前の記事から少し日が経ったが、特別書くこともないので近況報告のようなものを書いてみることにする。

仕事を始めて、4ヶ月が経った。
高校生活以来の、長い長い4ヶ月だった。
子ども時代の体感時間は大人のそれと比べて長いというが、それでも同程度に感じるほどに、耐え抜くという言葉が相応しい日々だった。
私の人生のボーナスタイムは、大学院生活の終わりとともに少なくとも1度終わった。
もし来年、今の仕事を変えるにしても、労働から無縁の生活は恐らくもう来ない。
Fu*kin 人生100年時代。労働の概念を無くしてから出直してほしい。
法改正もままならぬまま、過重労働甚だしく一時は私を胃腸炎にまで陥れた現職だが、唯一の美点である長期休暇制度を利用して、今は心身穏やかな日々を過ごせている。
ずっと休んでいると暇に潰されて働きたくなる、といった精神は私には備わっていないので、もう残りの人生は休日だけがいい。
とは言え、私の生きている内にそんな生活が保障されることはないと思われるので、つまらぬ愚痴はここまでにする。

最近新しく始めたことと言えば、switchのフィットボクシングである。
偶々親戚から譲り受けたので、折角だからとやってみたが、これが案外続いてもう1ヶ月ほどになる。
体調不良の日などを除いて、殆ど毎日やっている。
私も運動がそれほど好きなわけではないのだが、ゲームは好きであることと、空調の効いた部屋から出ずに行える運動不足解消の手立てとして、うってつけだった。
どうせ外は日差しが照りつけていて、人が多いところに出て行くのも気が引ける。
買い物に行けば、予算を忘れて辻斬りのように買い漁ってしまう(この1ヶ月において、化粧品だけでも既にいくら使ったのかは計算したくない)。
散財を防げて健康にもなれる、良い暇潰しを見つけたというものだ。
元より体重の減少を図る必要は然程なかったが、体重は変わらずとも見た目にはほんの少し引き締まったような気がする。
しかし、それよりも良かったのは、実践向きのトレーニングではないとは言え、「これでいつでも、ある程度の殴る準備ができている」という感覚が、精神的に良い作用をもたらしていることだ。
まあ、戦闘力で換算するなら、今まで3だったのが3.2くらいになった程度の変化だろうけれど。
それでも、成人してからは自分の変化を体感すること自体が減ってくるので、ほんの少しの変化でも楽しくなる。
錚々たる強キャラの声に励まされながらのトレーニングは、普通にテンションが上がるので、おすすめしたい。

それにしても、毎日こうも暑くては嫌になる。
アウトドアの趣味は無いし、常に冷房の効いた部屋にいるのだから、外がどれだけ暑かろうが関係ないと言えばそうなのだけど。
夏の良いところを考えてみたが、酒は年中いつ飲んでも美味いものだし、夏野菜は苦手なものが多いし、夏の煙草は不味い。
過ごしやすい季節の春と秋は、近年の気温変化によって、あってないようなものという始末。
この日照りが終われば、間も無く引っ張り出すはめになる、厚手のコートによって肩が凝る。
いつ逃げてもどこに逃げても、過ごしやすい環境などない。
気温や気候に悩まされて季節の変化を感じることはあれど、春夏秋冬どの季節も、存在しないような気もする。
日の長さ、鮮やかな緑、虫の声、時々どこかで花火が打ち上がる音、藁の焦げる香り。
どれを取っても今が夏であることを裏付けているのに、夏はもうどこにも無いような気がして、時々存在しない夏に帰りたくなる。

幼い頃の夏の思い出というと、まず思い浮かぶのは母方の祖父母の家で過ごした日々だが、既に2人とも亡くなっていて、母の旧家は取り壊されている。
元より親戚も少なく、母が嫁いだことで家は途絶えた。
母娘というものは、呪いのような、因縁のようなものが付き纏うものだが、それは私と母との間にあるように、母と祖母の間にもあったようだ。
私の性格は血縁の誰にも似ていないと言われてきたが、こういったところにだけは血を感じる。
帰る家を無くした母。帰る夏を無くした娘。
夏以上に、存在が明確である家というものを無くした母の気持ちは知れないが、私もいずれはそうなる可能性はある。
長生きすればする分だけ、帰る場所を失っていくように思う。
母との間に珍しく一致する思想の一つに、墓も墓参りも無意味である、というものがある。
死んでも人は星にはなれない。
墓には骨があるだけで、そこには誰もいない。
死んだら全部終わり。
祖母が死んだ時、母が言っていた言葉だ。
母と祖母の間の(祖母は死んだので、母のみに残った)呪いめいた何かが、未だに拭き切れていない様を見ているが、私は恐らく結婚もしなければ娘を持つこともなさそうなので、私が死ぬ時、少なくともこの3代に渡る呪いめいたこれは、"全部終わり"になるのだろう。
もし自分が死ぬ時期を選べるのなら、夏に死にたい。
そんなことを考えていたら、太宰の「葉」が思い起こされた。
二十歳頃には死んでいようと思っていた十代の頃から、もう何年も経っている。
着物一反に死が引き延ばされるように、私もまたどうせこの夏には死ねないのだろう。
いつかのその夏を、私は夏だと思えて死ねるだろうか。

日が暮れてきた。今回は終わり。


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