吾輩は人間だと思う【INTP】

「人として最低」
「人の気持ちがわからないの?」
「情操教育が上手くいかなかった」
「どうしてこんな子になっちゃったの」
「理論的には正しいんだろうけど、人を思いやる気持ちはないの?」
「生きるのがそんなに辛くて楽しいことが何にもなくて、どうやって生きていくつもり?」
「どうしてやる気や情熱を見せてくれないの」
「そうやっていつも冷静でいられると腹が立つ」
「いつも事実の話ばかりで、感情や共感の話をしない」
「生まれてきたくなかったとか思ってるんでしょ」
「やっと人間らしくなったと思ったのに」


以上は全て、私が実際に母に言われてきた言葉である。
INTPには最低限の情緒的サポートも望めないと言われているとはいえ、ここまで罵倒されるとは。
"人として"、"人間らしく"と言われても基準が明確でないし、三つ子どころか四半世紀の魂は、恐らくもう大きな変化をすることはないだろう。

たしかに私は、最低の人間かもしれない。
母の言う"最低"の定義も気になるところだが、それはさておき、私とてある程度の社会性はあるわけで、最低人間に映り得る自己の部分は認識していて、どこでも誰にでも全てを見せるわけではない。
二十数年生きてきて、それなりに、わかっているからだ。
自分が、感情に関する多くのことに乏しいことを。
"普通の人"を理解しようと思考を並べても、人間のことを学んでも、感情表現や共感という形で表出する理解は、私にはできないのかもしれない。

母の言う"普通の人"とは、誰なのだろう。
何をどうしたら"人間らしい"のだろう。
仮に、母にとって母のような人間が"普通の人"なのだとしたら、私にとっては私のような人間だって"普通の人"だ。
「私たちは分かり合えない人種だ」と母は言った。
そうかもしれない。
時々分かり合おうと互いに発する言葉は、両者の間の泥川に落ちては濁って、元の本意は一つも読み取られない。

わからないものは面白い。わからないものは理解したい。
そう思って心理学を学んだり、哲学の本を読んだりしてみた。
結果、多少の理解には繋がったが、人間を全て解明することはできないことを察した。
わからないという面白さの余地に対する若干の安堵と同時に、他者と人生への諦めが増した。

読書量の風刺画を思い出す。
本家かはわからないが、本を読まぬ人は張りぼての青空や花鳥を眺め、本をそれなりに読んだ人は暗澹とした景色を眺め、多くの本を読んだ人は本物の青空を眺める絵だ。
この風刺画を元に考えるならば、私はまだ読書や知識が足りないから、本物の青空へ辿り着けていないだけなのだろうか。
本物の青空とは、更なる読書に励むため、生きるために必要な願望に過ぎないとも考えられるが。

おとなの掟の歌詞を思い出す。
「手放してみたいこの両手塞いだ知識 どんなに軽いと感じるだろうか」
先の風刺画で言う、本を読まない人への憧れにあたるのだろう。
時々TVのバラエティ番組で見かける、我々の文明から切り離された生活をする部族を取り上げて、人々が感心したり時に羨望したりする様もそれに近いのかもしれない。
より豊か、より清潔、より快適な生活を安定して繁栄させることが生き物としての人間の目的だと信じながら、そもそもの豊かさの定義に疑念を抱く。
しかし、その日暮らしの中で幸福そうに生きる部族を見たところで、殆ど人々は今の生活を手放さない。
手放せないのだろう。一度得てしまった知識と同じように。

どうせ死ぬのだから何をしても無駄だ。
こんな無駄なことを、重たい臓器を抱えて姦しい世界に晒されて生きることを、例え生物的に正しく1代長引かせたところで、苦痛に生きる人間が増えるだけじゃないか。
恥の上塗りが人生の大義というのも、死生の一本道において生を正当化するための言い分に過ぎないのではないかと。
人生について、今までの人生の大部分を使って悩んできた私は、大層立派に"人間"をしていると考えるけれど、これでもまだ人間らしくないのだろうか。
僅かな幸福を享受し、義務に励み、苦難を乗り越え、人を愛し人に愛されることが、人間が人間らしくあるための必須事項だというのだろうか。

そういった人生の追体験がしたいのならば、映画で充分だ。
なぜそういった映画やドラマがNetflixに溢れているかと言えば、フィクションだからだ。
脚色がなければ、大抵の人生は感動を誘わないし画面映えもしないだろう。
つまらないのが人生のニュートラルだから、娯楽が商売として成り立つ。
貧乏暇無しというが、つまり暇や退屈にはある程度裕福さが必要であるということだ。
つまらないと感じながら生きる、裕福で人間らしい人間が増えるほど、娯楽の需要も増える。
近年のSNSはまさにそうだ。
話が逸れたが、母が恐らく考えている"人間らしい人間"とは、いずれフィクションの中にしか存在しなくなるかもしれない。
順調に少子高齢化も進んで、あとはいつか滅亡するだけだ。
人類滅亡の日とはまた、何とも映画らしくて心が躍るというのに、恐らく立ち会えないのが惜しいところだ。

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