動物とINTP

二十余年生きてきて、最近まで生き物を可愛いと思う感覚がよくわかっていなかった。

幼い頃は、親の実家にいた犬猫にも大して興味がなかった。
どうして皆が特定の動物にだけ愛情を注ぐのかが、わかっていなかったように思う。
毛が柔らかいと触り心地はいいな、くらいの感覚だった。
たしかに犬などは懐けば言うことを聞くし、それを可愛いと思うのだろうけれど、私は動物の、特に餌の臭いが苦手で、動物園の獣臭や水族館の生臭さも嫌だったから、何で態々家の中で動物を飼うんだろうなと思っていた。

ベタな話だが、可愛いは可哀想と繋がった感覚だと、子どもの頃から何となく思っていた。
自分がいなければ生きられない生き物は可愛い。
餌を求めてすり寄ってくる様は可愛い。
何だか周囲とは動物に対する温度感が違うなあ、とは思っていたが、動物好きかそうでないかという違いによるだけだと思ってきた。

実家でも今までに何度かペットを迎えたが、世話は義務的にやるばかりで、「可愛がる」ということは殆どしてこなかったように思う。
彼らが死んだ時も、ああ死んでしまったんだなあ、こうして生き物は死んでいくんだなあと、到底心から悲しむということはできなくて、しかしその度「私は彼らの死に対して大泣きできるほど彼らに愛着を持てていなかったのだから、仕方がない。寧ろ泣く方が却って不自然ではないか」と考えて納得してきた。

冒頭で、"最近まで"生き物を可愛いと思う感覚がよくわかっていなかった、と述べた。今でも動物好きとは言えないが、コロナに感染した後遺症で鼻が以前ほど効かなくなったこともあり、動物への不快感は減ったように思う。嗅覚障害について、日常生活でそれほど不便さは感じないし、後遺症としてはマシな方な上、私にとっては利もあったということだ。不快な獣の匂いのする生き物が、動くぬいぐるみのような生き物になった。

動物に関する感覚の話というと、映画ジョン・ウィックの冒頭を思い出した。
マフィアのボスの息子とその取り巻きが、ジョンへの報復のために夜中彼の家へ侵入し、彼を痛めつけ、亡き妻からの贈り物である飼い犬を殺した。
それを観た私は、「人間は殺していいけど犬は殺すなよ」と思った。
なぜ私はそう思うのだろう、と時々思い返しては考える。
恐らく私の根本の考えとして、人間と他の動物の間で、愛着やどちらを尊重、優先すべきかと言った事柄について、天秤に傾きがないのだと思う。
どちらも生き物である。優劣はない。
では、なぜ"人間は殺していい"のに"犬は殺すな"と思ったのか。
人間が人間を殺すのは、法や倫理に反する。
しかし、人間と犬では、人間が定めた法律上では扱いに差がある。犬は人間を罰することができない。
それに、映画の中でジョンと輩の間にはそれが行われる理由があったが、犬は直接的には無関係だ。
つまり私は、不条理や不合理、理不尽が嫌いなのかもしれない。
商用や食用などのために屠殺される動物は哀れであるが、不必要に殺してさえいなければ、私はそれを許せるだろう。いや、許すしかないのが正しいか?
だがしかし、それは先程の不条理や不合理、理不尽は適応されないのだろうか。
ジョンの犬も屠殺される動物も、目的は違えど結果は同じく殺されている。
人間のためなら他の動物を害すことは許される、ということもないだろう。
トロッコ問題のように考えるならば、1人の人間と、1人の人間が一生の内に食べる動物の頭数を天秤にかけたら、命の数では動物の方が勝っているのに、人間としては人間を優先すべきなのだろうか。
その後のリターンを考えるならば人間を選ぶのも良いけれど、"等しく尊い命"なのに多数の命を選ばないなんて、数を数えられていないのではないか。

いや、こんな話がしたいわけではないな。
ヴィーガンの人らが主張しそうなことを書いてしまったけれど、私はヴィーガンになる気もない。
今回考えてみたかったことは、私にとっての人間と他の動物の認識の差についてだ。
個体別には愛着などの差はあれど、大きく種族としてのみで考えると、結局は、言語による意思伝達ができるか否かぐらいの差しか感じていないのかもしれない。
ペットへの愛着が少し分かってきたところなので、今後も時々考えてみようと思う。




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