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大皿と麻婆茄子豆腐

家にある皿が古くなってしまった。
といっても、皿に賞味期限は無いし腐る訳ではない。しかし、長年食卓に並ぶ事がなくなり、そうして埃を被ってしまい、家に「古い皿」が増えてしまった。
環境が変わり、私が糖質制限や加齢による食が細くなったのが原因の一つだと思われるが、そもそも、皿は食事に寄り添ってくれるもので、食事のレパートリーが限定的になると、自ずと皿も薄くサイズ感と重量も程々のものに変換されがちになってしまう。
究極の飽き性である私にとって、これはかなり悩ましい問題なのだ。

かくして、春の大掃除で見つけて以来頭を悩ませているのが、1枚の大皿だ。
この大皿は、中華ドンブリと味噌汁椀がすっぽり入ってしまう程の物だ。深さは…おおよそティッシュ箱二つ重ねたくらいで、柄には鳥と、和とも中とも言えない不思議な模様が入っており、橙と緑と青が着色されている。和食にも中華にもピッタリな、我が家の食卓を支える華やかな名脇役だった。

彼が最も活躍したのは、私が中学生の頃だった。
毎年恒例の徒競走大会に出る為の練習が始まった頃、母が裏庭から茄子をもいで適当に切り、それをくつくつと煮込んだ豆腐と挽肉に入れる。そこへ豆板醤等の辛味調味料を入れ、水溶き片栗粉で仕上げる。
それを、彼に盛り付ければ、我が家の大定番「麻婆茄子豆腐」の完成だ。
そこへさした大きなレンゲで白米にかけてしまえば、極楽どころではない騒ぎとなる。
最高の時間、最高の幸福、最高のご馳走。これ以上のものがあるのだろうか。

そんな風に思っていた頃から、今は麻婆茄子豆腐も小さな中華皿1枚程度で満足するようになってしまい、気がついたら収納棚を圧迫する存在へとなっていた。
アルバムは、全てのページが特別であり、一度めくったらその瞬間が特別なものへと変容する。私にとって、その大皿はまさにそれだ。
物覚えが悪く、心の病でほとんの時間を流されるだけで過ごし、行き着いた今は加齢に伴うそれで記憶力が危うくなってしまった。そんな私の僅かな記憶を引き出すスイッチが、その大皿と言う訳だ。
どちらかというと、マキシマリストに当たる私の部屋は、常に新しいものが溢れている。散らかっている訳ではないと思っている。が、全てが特別であり、全てが愛しく、全てが現在の「生きる理由」に繋がるのだ。私にとっての物とは、そういう存在なのだ。

しかし、彼はどうだろうか。
思い出になりつつある大皿は、どうなのだろうか。
もう、おかずを彼に盛る事はない。彼ではなく、タッパーと彼よりもうんと小さい皿達だ。
それは、彼の専売特許、いや、彼が生まれた理由、彼の存在理由を蔑ろにしてしまっているのではないか。それは、どうなのだろうか。
だが、たかだか皿だ。皿をどうこう思うのは、少しどうなのだろうか。が、私は考えてしまう。なぜなら、私の思い出の一部に、彼がいるのだから。

とはいったものの、このまま埃を被り「古い皿」にしてしまうには勿体無い逸材だ。
彼は、この家で埃を被ったアルバム役をするより、誰かの食卓を彩る脇役として活躍するべきだ。
そう思う。
数日後、近所の業者の回収日だ。彼等に渡せば、彼は遠いどこかの地の家庭に渡される。そして、私の様に…ではないと思うが、アルバムに、思い出になる事を信じて。そうしようと思う。

今日は彼をゆっくり洗い、丁寧に布巾で洗い、新聞紙に包もう。
日常は、楽しい方がいい。そういうものだ。

おやすみなさい。

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