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シュレディンガーの思考

言葉というのは、便利で不自由なツールだと思っている。
この一文だけで、どのように思うか。そんな話。
例えば、AさんとBさんがいて、Aさんは女性でBさんは男性、若年齢層と高齢、学歴や文化、住んでいる地域や趣味趣向…これらの「個体差」がある事で、短文でも解釈やそれに伴う思考が変わってくる。
だから、言葉は面白いし難しいのだと思う。

私の思考はネガティブによってスタートする。
「牛乳を買ってきて」ああ、面倒臭い。私の出費が増える。なんで自分で購入しないのだ。
こういった思考が根底にあり、その思考に至っているという自覚をする頃には、遠くに走り抜けた後となる。しかし、こういったダルい思考よりも修正・改善へと思考をシフトした方が、自分の心身の健康の為になると考えている。
お気楽、なのかもしれない。だが、ネガティブな思考の下にある希死念慮を「人間らしく」「人生に価値を見出す為」にも、どうにかしないといけないのだ。
だから、とりあえず、ダメ元でも「現状」を伝達しないといけないのかもしれない。
だから、言葉でもってコミュニケーションを重ねなければいけないのかもしれない。

私は、「私に価値は無い」と思っている。
それは、「結果的」や「感情に対するマイナス要素が多すぎる」からではなく、そもそも「価値」というのは自らが見出すものではないと思っているからだ。
絵を描いたとしよう。それを「傑作」と強く強く思ったとしよう。それを、マーケットで販売したとしよう。それが、売れなかったとしよう。
つまり、それが本来の「価値」なのだ。「価値」というのは、自分ではなく他人が決めるのだ。なぜなら、「価値」とは自分ではく他人が決めるものだから。
人が本当の意味で「死んだ時」というのは、誰からも忘れ去られた時だと言われている。自分が死に、残った人が死に、そうして自分を誰からも思い出されなくなった時、自分の存在を証明出来なくなる=価値の消失だと思う。現に、とっくの昔に死んでいる人が「偉人」と言われているのだから。

だが、少なくとも日本では「長生きする事が正しい」とされている。つまり、私にとって虚無が長く長く長く長く続いていく訳だ。が、自分自身でもそれをどうしなければいけないのか、どう処理と対処をしないといけないのかもわからない。
誰かに聞けば、どうにかしてくれるのかもしれない。が、こういった思考に「変」だとか適当に流してしまう人間がいる以上、どうにかしてくれる人間を探す事こそ無意味なのかもしれない。
だったら、「人生」に無価値と思ってたとしても、「今」に価値を見出せる様にどうにかすれば、少なくとも「頑張った期間」には価値が生まれる…と思っている。
お金が無くともお腹いっぱいになる方法はある。言葉が通じなくとも通じる文化がある。どうにも出来ない悩みも話せば案外どうにかなるのかもしれない。
例え、どうにも出来なくとも「出来なかった」という結果が生まれる。そこから、その後の事を考えればいいのだ。

他人は、私を幸せにはしてくれない。
私は、自分自身で自分を幸せにしなければならない。
だから、まずは歯を磨こう。顔も洗って化粧もしてお気に入りの服を着て、気に入ったご飯を食べよう。薬も飲んで少し運動して、部屋の掃除をしよう。話はそれからだ。
幸福というヤツは、不幸の近くには寄らないのだから。
私は、頭も顔も言葉使いもマナーも悪いし無いしで、どうしようも無い人間だけど、自分自身を運営管理する人間は私だけなのだから、一つずつでも頑張ろう。
少なくとも、私自身は私を「幸せになれ」と思っているのだから。
頑張ろう。

しばらく、家事や治療が捗っていた為、疲れてしまったのかもしれない。
明日は、しっかりお風呂に入って疲れを取ろうと思う。

おやすみなさい。

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