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【映画】「夜明けのすべて」を鑑賞して

 久しぶりに文章を書きたくなって、なんだかふわふわした気持ちでキーボードに向かっています。

 写真展「温度」から1カ月。あいさつ文と作品についてのコメント、解釈文、そして私なりの解説文。言葉にまみれた日々はあっという間に過ぎていったけれど、私にとって言葉を使うことは、頭でも心でも身体でもない、「私」をすり減らすことなのだと実感しました。

 だから2月後半は言葉と向き合うことができなくて、2作品目の解説文を書いたのは3月初め。怠惰なものです。
語彙力のなさもまた悔しくて、毎度のことながら勉強したい熱がすこし上がっています。熱、といえば温度、と思う私は多分、テーマに頭を捧げすぎておかしくなっているのでしょう。

本題

 これだけ書いておいてなんだけれど、今日は写真展「温度」の話、ではなくて。
 映画「夜明けのすべて」のお話。レポートとも言えないような感想だけれど、ネタバレ見たくないよという方は、ここでそっと閉じてください。

感想

 スタートは、「上白石萌音ちゃんが出るなら見たい」というごくごく単純なものだった。でも登場人物について少し知ったときに、この映画を観ることにはすごく意味がある気がした。共感とかではなくて、今の自分に近いような遠いような世界を感じる、いわば教養、のような意味。
 明るい話かというとそうでもなさそうに見えていて、正直すこし怖かった。

 原作を読んでいればストーリーを追うことができるのだろうけれど、映画で初めて知ったもので断片的だから、観終わった後の感想を書く。

 まず、私にはPMSもパニック障害もない。だから、一例に過ぎないとしても、実情との乖離がある程度あったとしても、その人生を垣間見ることができたところにまず「意味」があった。途中の『(症状に)名前がつくと楽になるよね』という会話はなんとなく理解できる気がした。

 つぎに、日常のそれらしさ。綺麗な起承転結や伏線回収ももちろんあるけれどそれだけではなくて、日常のなかでなんとなく報われない行動やある種気まずくなるような瞬間がちりばめられていて、私はそれが好きだった。自分が苦労して自転車を押す坂道を、電動自転車の人がすいーっと抜かしていく、とか、改札の外で待つ人が手を振っている相手が自分じゃなくて後ろの家族だった、とか。私たちは普段から(自分の人生の主人公ではあるかもしれないけれど)それこそ映画のヒーローやヒロインのように中心には立たず、人波のなかで生きていることを意識した。
 意図の有無はいったん置いておいて、日々に困難を抱えることがあるひとも、そうやって溶け込んで生活していることを示唆しているように感じた。真に誰もが生きやすい社会にするためには、それを心に留めておく必要があると。

 さいごに、タイトル「夜明けのすべて」という言葉について。藤澤さんと山添くんが出会う場所は勤務先なのではなくて栗田化学だ、と気づいたのは後半に入ってからだった。過去を振り返り、藤澤さんと山添くん、そして栗田社長やほかの同僚たちが関係を深めていく様子がゆったりとしていて、エンディングに向かいつつも盛り上がりすぎずといった雰囲気が、私にとっては1番のツボだった。

 ここからは余談。
 「夜についてのメモ」、どの部分も素敵で、すべて書き起こして見えるところに貼っておこうと思うほど、心にのこしたい文章。この映画の趣旨とはずれるようだけれど、私はこの朗読を聴きながら、過去の自分を思い出した。
 できることならこの言葉を、高校生の頃のわたしに教えてあげたかった。その頃のわたしなら、きっともっと素直に、新鮮な気持ちで受け取ることができたと思う。いま20歳を超えて私は、良く言えば気持ちの整理が上手になって、悪く言えば鈍感になってしまった。夜明けに対して抱く感情や、夜と朝の区別もきっと、曖昧になった。
 夜明けに希望や絶望を得て揺らぐ心は、おとなになっても治らない癖なのだと悲観していた頃からすれば、きっと嬉しい変化だ。しかしないものねだりとはよく言ったもので、そんなふうに悩んでいた時間すら豊かで大切だったことを、その青くて脆い心を、あとあと、じわじわ、咀嚼する。

moca


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