現代麻雀技術論註第13回「選択のステップは『認知』『判断』『操作』」
麻雀で強くなるためには、「自分の選択」を正着に合わせるより他ありませんが、「選択」のステップは、「認知」「判断」「操作」に分けられます。『勝つための現代麻雀技術論』でも、「ネマタの麻雀徒然草」でもお話したことですが、今回は少し違った視点で取り上げてみたいと思います。
「ネット麻雀は(牌を積むような)麻雀ではない」。今となっては信じ難い言葉ですが、2000年代前半まではあたかも多数派の意見のように非常によく見受けられました。「ツモ牌に偏りがある(という誤解)」、「ルール(オンレートでない等も含む)が違うから展開が変わる」といった、「抽選」「結果」を理由として発言される場合もありますが、「選択」を理由として発言される例もあります。
「サッカーゲームが上手くなってもサッカーが上手くならないように、ネット麻雀では麻雀は上手くならない」。私の記憶が正しければ、最近はサッカー選手のようなユニフォームを着て麻雀を打っている、世間的な知名度が最も高い麻雀プロがこのような趣旨の発言をされたことがあります。選択のステップを「認知」「判断」「操作」に分けて考えれば、この言葉が荒唐無稽であることはお分かりでしょう。何故なら麻雀はサッカーのようなスポーツに要求される運動神経、「操作」の技術が強く要求されるゲームではないからです。
一方、「ネット将棋が上手くなっても、(対戦相手と向き合って駒を並べる)将棋は上手くならない」といった主張をする人はまず見かけません。そもそもネット将棋のトップ層はプロ棋士や奨励会員が多数を占めるのですが、その事実を知らなくてもこうした主張を見受けないのは、将棋のような頭脳ゲームに要求されるのは、勝つために必要な知識と思考。「判断」の技術であるからです。
麻雀も頭脳ゲームとしての側面がある以上、「判断」の技術が要求される割合が高いのは間違いありません。では何故、「ネット麻雀が上手くなっても牌を積む麻雀は上手くならない」という誤った言説を少なからず見受けるのでしょうか。「流れ論」の時もそうでしたが、こうした言説を正しいと信じている人が、揃いも揃って合理的思考力が劣っているというわけではありません。
「徒然草」でも申し上げた通り、麻雀は「認知」の技術についても、各種ボードゲームの中では比較的要求される割合が高いゲームです。将棋には盤と駒を用いず、指し手を声に出して盤面を暗記しながら戦う、「目隠し将棋(脳内将棋)」という遊び方がありますが、私クラスの棋力であっても何とか遊ぶことができます。
これが、「目隠し麻雀」だったらどうでしょう。麻雀漫画『アカギ』に登場する盲目の代打ち、市川並みのずば抜けた記憶力の持ち主でもなければ、およそゲームにならないでしょう。当然と言えば当然ですが、麻雀がいかに、「認知」の技術が要求されるゲームであるかに気付かされます。
雀荘で場代を払っても浮くほどの勝ち組で、昨今の麻雀戦術に関する知識にも明るいにも関わらず、ネット麻雀は全く打ってこなかったという知り合いが二人ほど居ました。お二人ともその後天鳳で相応の成績を挙げるのですが、両者とも最初のうちは牌を積む麻雀と違い、情報がなかなか入ってこなくて苦労したと仰っていました。
「ネット麻雀は麻雀でない」という言説が盛んだった当時、お二方の率直な感想を聞けたのは大変貴重な経験でした。確かに、情報の入り方、「認知」に関しては、ネットと牌を積む麻雀ではかなり変わってきます。その点では、「ネット麻雀では結果を出せても、牌を積む麻雀では結果が出せない」打ち手がいたとしても不思議ではありません。しかしそれはネット麻雀と牌を積む麻雀が逆になっても同じこと。どちらのフィールドが優れているという問題ではなかったのです。
「選択」のステップは「認知」「判断」「操作」。「ネット麻雀は麻雀ではない」という言説は、「判断」の過小評価から来る誤りであったと言えるでしょう。しかし麻雀は「認知」が要求される割合も高いゲームです。『現代麻雀の神ワザ』で触れられているように、強者の「判断」は案外一致しませんが、強者はおしなべて「認知」の技術に長けているもの。昨今の麻雀研究から得られた「判断に関する知識」は習得しているにもかかわらずなかなか勝ち切れないという方は、「認知能力の向上」「知識が不要な選択に関する単純なミスを減らす」「正しい判断通りの選択ができるための体力、メンタルを整える」このあたりに取り組まれることをお勧めします。
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