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平安京建都の影 最恐の怨霊となった早良親王の軌跡

 日本の三大怨霊といえば、崇徳院、平将門、菅原道真だそうですが、私は大いに異議あり。日本の怨霊トップ3を遥かに凌駕する平安京最恐の怨霊、早良親王の軌跡を辿ってみました。

 早良親王は平安京を創った桓武天皇の実弟。母の名は高野新笠。左京区の高野という地名はここから出たんかな?
 新笠は和氏という百済系の姫様らしいけど「高」という姓を使っているということは元は高句麗系であったのかも??
 飛鳥後期から奈良時代、そして平安時代のはじめ辺りまで朝鮮半島出身部族間の暗躍がいろいろあったようです。天智系で母の身分もそこまで高くなく、このまま行っても天皇になれそうにない・・と早良親王は幼少の頃から出家。
 奈良時代後期、有力寺院が仏様の名を借りて天皇に圧力を色々かけてくるので、桓武はそれに嫌気がさして遷都を始めるのですが、仏教派は早良を親王禅師と持ち上げて、天皇に対抗するための強力なコネにしようと優遇していたのだと思われます。

 皇位継承レースでは色々政変があって、末席あたりに居た桓武が上り詰め即位することに。桓武の息子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)がまだ幼少だったので万一のとき皇統が途絶えないように、
「親王が大きくなるまでの間だけ、皇太弟やってくれやーー」と言われたかどうか知らんけど、早良親王は還俗して皇太弟になったそうです。

 坊さんやってたから嫁や子供も居ないし、将来安殿親王が大きくなったらスッと引くだろうって思ってたんでしょうね。その後「坊さんやってたとこ悪いけど、陸奥国やっつけてこいや・・」と命じられ、早良は藤森神社にお参りに行ったあと征東将軍として陸奥退治に。

 私が子供の頃、5月5日になるとこの藤森神社の氏子であった祖母の家に集まり、従兄弟たちと端午の節句を祝ってました。時代行列で鎧兜を着た武者の一団が近所を通るのですが、あれが早良親王の征夷武者だったんですね。藤森神社は端午の節句発祥の地、鎧兜の武者人形はこの早良親王の武者行列が起源なんだとか。今頃つながった。

 この東夷征伐のときは早良親王、けっこう手柄を上げたそう。よっしゃ!と思って帰ってきた矢先、当時の貴族の大実力者、藤原種継が暗殺されちゃいました。。西暦でいうと785年。
 先日、この暗殺のあった近辺を通りがかったのですが、阪急西向日駅の田舎の住宅が並ぶとこらへんで、日本を揺るがす事件が起きたなんて今では想像もつかない長閑なところでした。

 奈良をなくし(794)て平安へ・・と語呂合わせで平安遷都の年号覚えてた人も多いだろうけど、実際には奈良をなくして784年に長岡京へ・・が正しいのです。
 小学校では飛鳥→平城→平安みたいな習い方したけど、実際には
飛鳥→難波→飛鳥→大津→飛鳥→藤原→平城→長岡→平安
と時の都はうつろってきました。古都は京都と奈良だけでなく滋賀と大阪にもあったのに、なんで習わなかったんかな??

 そして、長岡京に遷都するための当時の長官が藤原種継。今でいうとこの遷都担当大臣みたいな役職、中納言だったかな(エビが跳ねる映像)。
 長岡京に遷都したのは日本のフィクサー、秦氏の影の尽力じゃあないかな?と勝手に想像。ちょっと調べたら、やはり種継のお母ちゃんが秦さんでした。この人、遣唐使にも行ってたみたいで、家柄も学歴も申し分ないエリート。

 遷都を終えて一年後、種継は残業してたのか、どこぞの姫君に夜這いかけてたのか、夜中に後ろから矢で射られて翌朝お亡くなりに。
 さっそく取り調べしたら、、首謀者はその前の月に死んだ大伴家持。万葉集編纂で有名な歌人ですよね。家持を抜いて種継がメキメキ出世しちゃったから?家持は色んな陰謀に関わって何度も左遷されて飛ばされたにも関わらず、すぐに復帰して出世を重ねてきた人。この人も優秀で遣り手だったんだろな。平城京の貴族の保守派で、京都への遷都を疎ましく思っていたよう。
 早良の身の回りのお世話を行う春宮太夫になってたり、陸奥方面の司令官にもなっていたり、平城の仏教派とも仲良し。けっこうと早良とは繋がりが深かった模様です。
 なにはともあれ、お気に入りの種継が殺されてカンカンに怒った桓武天皇は、首謀者たちを狩り出して、一日で処刑させたそうです。杜撰な捜査であった可能性も高いかも・・
 本稿とは直接関係ありませんが、桓武の息子、安殿親王と種継の娘、藤原薬子は日本を揺るがす大スキャンダルを起こしますが、それはまた別の話で

 家持の陰謀に関わってたかどうかは不明なれど、早良も種継暗殺の疑いをかけられて捕らえられ暗殺現場からほど近い乙訓寺に幽閉されてしまいます。文献では、無実を訴える早良は絶食して抗議した、、とあるけれどどうやら飯抜きの拷問?だったようです。

 淡路に流刑が決まったので、守口川の港、今の京阪土居駅近くの高瀬神社付近の船着場近くで、無実を訴えながら最後は憤死されたとか。
 亡くなった後も流刑なのでバカ正直に亡骸は淡路まで送られたそうです。

 悲劇の早良。知ってか知らずか、弟を流刑にし死に至らしめた桓武天皇に今度は悲劇が降りかかります。
 ここからが恐ろしい。様々な災厄が桓武天皇周辺に降りかかります。

・朝起きたら添い寝していた夫人が死んでた。
・2年後、皇后乙牟漏も起きたら死んでた。
・皇太子安殿親王の耳が聞こえなくなった
・別の夫人も起きたら死んでた
・母、高野新笠も突然死
・天然痘が大流行
・桂川の大氾濫(2回)と日照り凶作

 ちょっとこれは・・・長岡京縁起悪い。。と和気清麻呂の建議で平安京への遷都が決まります。

あらゆる魔除けを駆使して霊的に平安の街を造成しようとしますが
・清涼殿の門に雷
(当時は今の御所よりも西に内裏があり、今の清涼殿ではありません)
・朱雀門完成の翌日に落雷で焼け落ちる
・富士山大噴火

 もう、これでもか!!とばかりに不吉なことが起き続けます。菅原道真の祟りなんてこれに比べたら何分の一くらいしかなさそう。。

 陰陽師に占わせた結果、早良の祟りと出て恐れおののいた桓武天皇は
早良に「崇道天皇」の諡号を送り、ごめんなさいしまくりましたが怨霊の勢いは止まず、桓武が脳梗塞に倒れたり、安殿親王の両足が動かなくなったりと散々な結末に。

 四神相応や、東西南北の大将軍神社など数多の魔封じをほどこした平安京を完成させた桓武天皇は弟の怨霊に苦しみながら崩御されました。日本後紀には「怨霊に謝する」と書かれています。日本で初めて使われた「怨霊」の文字。
 この恐怖があったから、後の世の将門や道真たちも怨霊として認識され、以後日本の文化は怨霊を恐れ、対抗すべく発展していきました。

 お彼岸の法要は崇道天皇の鎮魂のために始まったとか。御霊会もそうらしいです。後に祇園祭に発展していったのですね。。

 ご近所のご縁で、早良親王の足跡を辿ってみました。
幽閉されたという乙訓寺にも慰霊塔がありました(扉絵)。ここで10日に渡って断食されたとか、あるいは食を与えられなかったとか。。
 その後、淀川を下って淡路島に流されることになりましたが、京阪土居駅の近く高瀬神社の向かい辺りの船着き場で憤死されたとあります。こちらには早良親王の供養碑などはありませんでした。高瀬神社のそばの道路一本挟んですぐのところに港跡などもありました。駐車場そばに小さなお稲荷様の祠があったけど、雰囲気があまりに恐ろしくて入ることができませんでした。多分、亡くなった場所のすぐ近くと思われます。祭神などから直接の関係はないとは思いますが、陰の気はまだ残ってるのかな? 

 コロナで人がいなくなった初夏の京の街の鬼門・上高野にある崇道神社にもお参りしました。入り口は暗く、きっとおどろおどろしい神社なのだろうと思っていましたが、中は美しく掃き清められていてとても清々しい雰囲気。
 心静かに落ち着ける場所で、怨のオの字も感じられない静謐な空間でした。御霊を鎮めるための、恐れと尊敬の入り混じった誠意のようなものが具現化された場所で、これならば平安最恐の怨霊も鎮まることだろう・・と思えるとてもよい神社でした。

 少し下って、鞍馬口の上御霊神社にも足を伸ばしました。後に平安京を焦土とした応仁の乱の勃発地でもあります。近づくと、なんとも得体のしれない静けさと緊張感が漂う土地なのですが、早良親王の祟りなのかその後亡くなった京の民の亡霊なのか。。

 伏見の藤森神社にもお祀りされています。端午の節句の日には流鏑馬なども行われ、ものすごい人出になります。早良自身、陸奥征討前に持統皇后にあやかって戦勝祈願に来られたとか。まさか自身が祀られることになろうとはその時は思っても居なかったでしょうに。

 平安京創始者の桓武天皇は明治天皇陵の少し北側に廟がありますが、弟の崇道天皇は奈良の東山にある八島陵でお眠りです。怨霊は恐れられ、敬われ、長い時を経て安らかな御霊の神様になるようです。様々な縁の場所を訪ねて思いを馳せながら、御霊信仰のメンタリティを持つに至った日本文化の一端が感じられた気がします。

#日本史がすき

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藤森神社にある碑 ここで戦勝を誓われたとか
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崇導神社(道が導の字になってる)
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ものすごく清らかな気
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御霊神社


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