言葉の重み

キューバ、亡命、と聞いて思い出す話がある。キューバの作家レイナルドアレナスの話だ。カストロ政権による同性愛者迫害により、何度も投獄され、箱くらいのサイズの独房に閉じこめられるという拷問を受け発狂しかけたり、解放された後も作家ということで目をつけられ命の危険があったため、アメリカへ亡命することにした。素性を偽り船に乗るのだが、やっと港を離れた所でバレてしまい、海に飛び込んでそのままフロリダまで泳いで亡命した。船の上にいてもまた捕まって投獄され、いずれ殺されるだけだから、それならと、死に物狂いで泳いだと思う。
ぶっちゃけ私なら溺れると思う。逞しい人だから、絶対死なない、という意志が強かったのだと思う。どんなに辛い状況にあっても、ゲイのあるあるネタで笑いを取りにくる、常にユーモアを忘れない人なので、自伝「夜になるまえに」を是非読んでみて欲しい。
スポーツ選手が大会の機に乗じて亡命するのは、そこしかチャンスがないからで、そこを逃すと死ぬ可能性が高いからである。切り取りと言われても、「亡命ダメゼッタイ」が、「ナショナリズムに殉じて死ね」という意味にとられても仕方ない社会的背景というものが、すでにある。
切り取りというのは前後に文脈がある場合にのみ、可能な言い訳であり、「選手の背景がどうの」というのは、野球を知らなくて、亡命しなければ死んでしまう人にとっては、たいした意味を成さないと思う。しなくて済むなら誰もしたくないもの、それが亡命だと思う。
難民もそうだが、「日本にいないから知らない」というのであれば、知らない言葉は不用意に使わないことだね。
ずっと一緒に野球やろうぜ!」と言いたかったなら、そう書けばいい。その方がずっと真っ直ぐに伝わるはず。言葉の重みを疎かにしてはいけない。


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