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魔女のなり方

自立して生きる女性たちの闘い

 「魔女」とは誰か。
 中世ヨーロッパで魔女裁判にかけられた多くの女性たちが、「魔術を使う」だけではなく、「病人やけが人の治療をし、出産時の産婆もつとめた」、いわば共同体の援助者としての力を持っていたことが、近年の研究の中で明らかになっている。
 魔女として告発された女性は、独身や寡婦であることが多かった。当時のヨーロッパでは、同業者同士で構成された職業団体が都市の経済活動を動かしていたが、女性たちはその団体に加盟することを禁じられていた。そのために、男性の扶養に入らずに独身で生きる女性は、「耐えがたい経済的圧力」の下にあった。
 これらの事実を参照したとき、魔女狩りを行った人々が本当は何を恐れていたのか、わかるような気がする。
 一人で生きていく力を持つ自立した女性が、その能力を開花させること。
 「魔女」と呼ばれた人々の正体は、男性の支配下に入ることなく、男性や子どもに尽くすこともなく、ただ自分自身の生き方を受け入れ、歩んでいく力を持った女性たちだった。彼女たちは、自らの心の声を聴き、行動するパワーを持った、凛とした女性たちだったのではないかと思う。


 モナ・ショレが書いた『魔女―女性たちの不屈の力(原題はSocières La puissance invaincue des femmes)』は、中世から現代に至るまでの「魔女」と称された・あるいは「魔女」と自称した、女性たちの生き様を描き出した本だ。同時に、「魔女狩り」の本質を「女性蔑視」の動きとして位置付けることで、中世に「魔女」とされた女性たちと、女性差別からの解放を目指す現代のフェミニストたちをつなげて論じた、力強いフェミニズムの書でもある。

 ちょうどこの本を読んでいるとき、私は自分が勤めていた会社の社長に「物言いした」ことを理由に、配置転換を迫られていた。
 威圧的な言動を止めてほしい、と物申すだけで、「そんなことを言われて傷ついたのはこちらの方だ」と圧力をかけ、懲罰的に権力を振るおうとする男性が実在するという事実に、私は唖然としていた。
 そんなとき、モナ・ショレの本に書かれていたこの一節に目が留まった。

「平等の一瞬のそよ風でさえも、男性は破壊的な台風のように感じるものだ。ちょうど、人種差別の被害者が身を護ろうとする素振りをみせるだけで、世間の多数派は攻撃を食らい、今にも呑み込まれるのではないかと考えるように。」

 私たちの起こしたそよ風が、男性の権力者にとって台風に匹敵するとしたら、もしかして男性経営陣中心の企業は、女性たちを押し込めた「組織」という密室に、効きの悪い扇風機を一個つけた程度のことで、「風通しの良さ」を達成した気になっているんじゃないんだろうか。

 ちなみにこの「平等の一瞬のそよ風でさえも…」と書かれたこの一節では、支配する側が支配される側のささやかな抵抗に激怒する理由として、「罪のない被支配者の怒れる抗議に対し、みずからの身の破滅を招きかねない良心の呵責があるのかもしれない」と指摘されている。
 支配する側にとって、特権を失うことはとてつもなく恐ろしいことだ。もしくは、自分たちが特権を持っている存在だと女性たちに気づかれることにさえ、怯えているのかもしれない。


アイスクリームと抵抗


 1971年、アメリカで女性解放のための月刊誌「ミズ(Ms.)」が創刊された。共同創刊者の一人であるグロリア・スタイネムは、未婚であることを示す「ミス」でも、既婚であることを示す「ミセス」でもない、新しい女性の敬称を提唱した。それが「ミズ」だ。
 子どもの頃から旅をするように生活を営むことが当たり前だったスタイネムは、リモートで勤務していた勤め先の雇用主から週2日の出社を要請されたとき、「辞表を提出し、コーンにのせたアイスクリームを買って、日のあたるマンハッタンの通りをそぞろ歩いた」経験があるという。

 アイスクリームを食べる自由と、日の当たる通りを散歩する自由。その二つの自由は、からだと心に結びついた幸福であって、誰にも奪われていいものではない。スタイネムの主張が聞こえてくるようだ。
 社会の側から「適切ではない」とされているから(あるいは自分自身がそう思い込んでいるから)声に出しづらいけれど、本当は自分の中で大切にしたいと思っている自由が、誰にでもあるのではないだろうか。
 スタイネムはそれを自ら受け入れ、表現する方法にとても長けた人だったのだと思う。
 その方法は、意外と身近なところにもあるような気がする。空を見ること。風の音に耳を澄ませること。ただぼーっと風景を眺めながら、自分の心の声を探してみようとすること。

 

 社長が「私に会いたくない」という幼児性丸出しの理由で定例ミーティングを2週連続でスキップした日、昼休憩を使って、私は近くの世田谷公園まで自転車を漕いだ。スタイネムのエピソードを読んで、無性にアイスクリームが食べたくなったからだ。
 あいにく公園内の売店はお休みだった。諦めようかと思った一瞬、公園近くのアップルパイ屋さんで、アイスクリーム付きのおやつが買えるかもしれないとひらめいた。
 行ってみると、一枚の写真が貼ってある。「アップルパフェ」。熟したりんごとクランブル生地の上に、ソースのかかった大きなバニラアイスが乗っているパフェ。私が選んだのはラズベリーソース。


 今後会社の中でどうしていくか、暗澹とした気持ちを拭いきれないまま、パフェが出てくるのを待っていると、店員さんがニコニコと話しかけてきてくれた。
 「今日は暑いですもんね。このアップルパフェ、私も大好きなんです!」
 その朗らかな笑顔と優しい言葉に、暗い気持ちが一瞬で吹っ飛んだ。
 りんごはじっくり煮てあって、大粒なのでかなり食べ応えがあるらしい。公園でランニングをした後に買いに来るお客さんもいるそうだ。おいしそうですね、とこちらまで笑顔がこぼれる。
 「行ってらっしゃい」と笑顔で手渡されたパフェを手にして、私はさっきまでとは違う気持ちで公園に向かっていた。

 優しくて温かい人に出会うと、ちっぽけなものに捉われていた自分の視野の狭さに気づくことがある。

 りんごは甘く、大切に時間をかけて火を通された優しい味がした。ラズベリーソースは甘酸っぱい。それらを滑らかなバニラアイスと一緒にスプーンで掬って口に入れると、太陽をいっぱい浴びて育った果物たちの豊かな酸味と香りがアイスと溶け合った。


 自分の意思で時間を使えるようになることは、意外と難しい。でも、思い立ったときに美味しいアイスを食べに行くとか、そういう瞬間を作ることが、急に自分を取り戻すきっかけになったりする。
 もっと言うと、もしかしたら、アイスそのものだけではなくて、それを作っている人や、売っている人の優しさに助けられることもあるかもしれない。自分の好きなものを好きなように食べることを、喜んでくれる人の存在がいる。それだけで、生きていることを祝福してもらえた気持ちになることだって、あるはずだから。


 最近、湯澤規子先生の『焼き芋とドーナツー日米シスターフッド交流秘史』を読んでいて、『女工哀史』の書かれた時代の女性労働者たちにとっての抵抗の手段は、集会と焼き芋だったという記述を見た。
 心を通じ合わせられる仲間と、心を動かしてくれる美味しいもの。両方が、女性が働いていくために不可欠なものだ。
 社会はときに、女性を「自立」ではなく「孤立」の方に追いやることで、女性たちの生きる力を弱め、排除しようとする。その押さえつけてこようとする力に対して、立ち向かうための原動力になるのが、仲間だったり、美味しいものだったりするのだと思う。


 自分らしく生きること。
 心地よいと感じられる場所に立ち、この世界を自分の目で見ること。
 心で感じるものを大切にすること。
 
 それを大切にできたとき、初めて開ける道が、きっとあるんじゃないんだろうか。
 そして本当の魔女は、きっと、その全部ができた人のことなのだと思う。


 アップルパフェを食べ終わった私は、家に戻って文章を書くために、もう一度自転車にまたがった。


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