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「すべての見えない光」感想

 目の見えない少女マリー・ロールと、孤児の少年ヴェルナー。
 戦時下のフランスとドイツ。
 暴力と貧困、排除と不寛容が吹き荒れる時代。

第二次世界大戦の狂乱が人間にとって最も大切なもののひとつ ―未来を夢見る力―を容赦なく奪っていく中で、出会うはずがなかった二人は奇跡のように出会い、永別します。



 「すべての見えない光」(アンソニー・ドーア作、藤井光訳、新潮社クレストブック https://www.shinchosha.co.jp/book/590129/)を読みました。



ラジオという魔法


  小説は、フランス有数の自然博物館の錠前主任を務める父に愛されながら暮らすマリー・ロールと、ドイツの孤児施設で育ったヴェルナー、それぞれの視点で物語が切り替わりながら少しずつ進んでいきます。異なる国で生きている二人の運命をつなぐ物語の軸の一つは、ラジオです。


 数学や物理学に生まれながらの才能を持っていたヴェルナーは、「子どもたちの館」という孤児の施設で暮らしていた頃、壊れたラジオを拾い、自力で直します。
 ヴェルナーと妹が夢中になって聞いたのが、フランスからドイツへ国境を越えて届く、おちゃめなフランス人の科学番組でした。神秘にあふれた科学の不思議を語るその番組は、「世界をもっと素晴らしくする発明をしたい」というヴェルナーの夢を膨らませます。


 現代の東京に暮らす社会人であるにもかかわらず未だにテレビのない生活をしている私は、四六時中ラジオを聞いて楽しんでいるヴェルナーの妹(ユッタ)にとても共感しました。

耳で入ってくる情報って、視覚的な情報よりも自分の想像力で埋められる要素が大きいから、楽しいんですよね。どこでも聞ける手軽さもあります。

私は化粧中にスツールに座りながら英語のポッドキャストを聞くのが好きです。最近お気に入りのポッドキャストはバイリンガル向けの絵本のストーリーを英語で語ってくれるめっちゃ優しそうなオーストラリア在住のお兄さんのラジオです。海沿いの見晴らしのいいQOLが高い家に住んでいそうだなあと勝手に想像しています。だからか、ユッタがフランス人の住んでいる家を「きっとものすごいお金持ちなのよ!」と想像してはしゃいでいる気持ちも、なんとなくわかる気がします。

そしてヴェルナーとユッタの無邪気な幼年時代の想像は、物語の終盤でとても美しい運命を引き寄せることになります。





優しさという最良の宝物



 ドイツ側のヴェルナーの物語が徐々にナチによる過酷な軍事教育のエピソードへと移り、息苦しさを増していくのに対し、フランス側のマリー・ロールの物語は、常に何か柔らかいものに満ちている印象がしました。

 マリー・ロールの物語は、彼女に点字を教育し、外の世界を学ばせるために冒険小説や街の模型を与え、娘のことを不寛容な社会から守り抜こうとした父親の惜しみない愛情から始まります。

 読者は、父の愛情に守られて育っていくマリー・ロールの感受性を通じて、彼女の生きるフランスの街の美しさを知ります。通りに咲くゼラニウムの匂い。彼女の視界の内側であふれているさまざまな光の色。そして、彼女が周囲のひとびとから受ける最良のものである優しさなどを。

 マリー・ロールが大切な人たちを亡くし、戦争の足音が疎開先であるサン=マロの街にも届き始めてもなお、美しさと優しさは消えずに彼女の世界に留まり続けます。父が彼女のために作ったサン=マロの街の模型や、疎開先のマダムが連れていってくれた海に暮らす無数の貝たちや、夫人が残した桃の缶詰、彼女の祖父から大叔父へ引き継がれた無線機の形を取って。


 それら全てを吸い込みながらまっすぐに伸びていった彼女の知性は、物語の終盤、絶望的な状況にある人々のために語る「海底二万里」のラジオの声とドビュッシーの「月の光」に収斂していきます。



戦争が奪ったもの


 マリー・ロールの無線によって発せられた音楽は、人間の目ではとらえることのできない美しさを持っていました。

 人間の目には見えない/人間の目ではとらえることのできない美しさを感じるためには、ある種の想像力が必要になります。

そして実は、現実には存在しないものを脳の中で見ようと試みる心の目―「未来」や「夢」を見る力の強さ―は、戦争が知性ある人々から奪おうとしたものでした。

 マリー・ロールの声と、彼女が流した「月の光」の美しい音楽は、ラジオの周波を通じて偶然、崩落した瓦礫の暗闇の中に閉ざされていたヴェルナーたちに届きます。そのとき、権力に尊厳を奪われることによって兵士になったドイツの少年たちは、戦禍に焼かれた自分たちの心のマグマに「自分の人生を生きたい」という願いがまだ残っていることに気づきます。


 心の目で真実の願いを見つけ出し、暗闇から抜け出したヴェルナーは、ラジオがマリー・ロールからのSOSであることに気づき、彼女を救うために走り出します。


この辺りでやっとこの小説がボーイ・ミーツ・ガールの物語として動き始めるのが、面白いなと思ったところでした。

ヴェルナーもマリー・ロールも大人の言うことを素直に聞くとっても「良い子」なんですが、大人から教えられてきたこと・言いつけられてきたことを守らずに自分の考えで行動したとき、絶望的な状況からの活路を発見します。「言うことを素直に聞く良い子が報われる」という教育的なストーリーの嘘に気づくヒントになるようなエピソードで、面白いなと思いました。



マリー・ロールの髪の色


 物語もかなり終盤に近付き、ヴェルナーが初めてマリー・ロールを見かける場面で、彼女の髪の色が「金褐色」であると描写されます。

 ヴェルナーの髪が「雪色」、目が「空色」というのは小説の序盤でわかりますが、「そばかす」と「眼鏡」以外のマリー・ロールの外見の詳しい描写が出てくるのは、ヴェルナーの視界に彼女が現れ、ヴェルナーの視点から彼女をとらえた場面が初めてです。

 叙事詩のようなお互いの記憶の断片が積み重なり、マリー・ロールとヴェルナーの物語が交わり始める場面でもあります。ある意味、長い長いプロローグを経てやっと物語が本題に入る部分だと言えるかもしれません。

 とてもさりげない描写ですが、マリー・ロールの髪が華奢な首の上で金色に輝いていた印象は、読み終わってからも鮮やかに残ります。



 ヴェルナーが初めてマリー・ロールを見かけたとき、マリー・ロールはまだヴェルナーのことを知りません。もしヴェルナーが戦争を生き延びることができて、マリー・ロールと再会することができていたとしたら。初めて彼女を見たときの印象を、彼女が直接彼から聞くことができていたら。

 自分の外見についてとても気にしていたマリー・ロールは、きっととても照れて、嬉しがったんじゃないかなと思います。



生きていくこと


 戦後、ヴェルナーの妹であるユッタが彼の遺品を渡すためにマリー・ロールに会いに行ったとき、マリー・ロールは彼の言葉を思い出します。

「ぼくらはよく、ルール川のそばでキイチゴを摘んだ。妹とふたりで。」

ユッタは戦争によって、とらえ方によってはヴェルナー以上に過酷な運命を歩んだために、終戦前の記憶を押し殺してきた女性です。

 そのユッタの人生の中にたしかに存在していた幸せな記憶の一粒を覚えていたのはマリー・ロールであり、マリー・ロールがそれを覚えていたのは、ヴェルナーの優しさが決して消えない輝きとなって彼女の心の中で生きていたためでした。



 マリー・ロールは、暗闇の中のヴェルナーに届いたラジオのことを振り返るとき、氷塊に閉ざされて海の中で生き埋めとなった「海底二万里」のネモ船長の物語を彼女が放送し続けた理由をこう語っています。


「彼は狂っていた。でも、私は彼を助けたかった。」


夢を見ること、世界を良くしたいと願うこと、他者を救うために行動すること。そのいずれもが、お互いがお互いを貪り合うことが当たり前となった戦争の時代においては、狂っていなければ成し得ないことでした。


 ここでマリー・ロールは「彼」―ネモ船長の物語に、ヴェルナーの姿を重ね合わせています。

 優しい人間であるためには狂い続けていなければいけない世界の中で、マリー・ロールのラジオによって生かされた優しいヴェルナーは、マリー・ロールのことを救い出しました。

 この小説の中に愛という言葉は不思議なくらい一度も出てきませんが、ヴェルナーとマリー・ロールの姿を通じて描かれているのは、どんな暴力や不寛容にも負けることのない、とても強い愛の物語だと思います。


 「奇跡」と呼ぶことができる何かを生み出す想像力は、結局、人間の優しさからできているのかもしれません。



戦争が奪っていくものとは何かについて、そして平和とは何かについて考えようとするとき、「すべての見えない光」は、出口の見えない問いにそっと寄り添ってくれるような本でした。



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