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社会人とギターと時間の速度

ここ最近、Vaundy(さん)の「恋風邪にのせて」が狂おしいほどに好きで、そのイントロのギターフレーズがどうしても弾きたくて弾きたくて、プチプチに包まれたギターを、約2年ぶりに開封した。

私は社会人になった時に引っ越して、その際一緒にギターを持って行った。引っ越した先でも弾くかなとか、ギターを社会人になっても弾いていたいなとか、そういった気持ちはたぶん別に特になく、なんとなくで持っていったように思う。

そして社会人になったら、驚くほどギターを弾かなかった。ずっと眠らせていて、ギター君には本当に申し訳ない。プチプチに包まれていたはずなのに、少しほこりをかぶっていた。

そうして開封したギターを使って、私はここ数週間、練習に励んでいる。

なんというか、最初は「恋風邪にのせて」が弾きたくてギターを再開したのだけれど続けていくうちに、その曲が弾けるようになりたい、という思いだけでなく、私はまた別の思いも込めてギターを弾いてしまっているのではないか、と考えるようになった。

社会人なんて、気づいたら平気で1年、2年と年単位で過ぎていってしまう。本当におそろしい。
学生の頃なんて、一週間でも長くて長くて、待ち遠しかった。まあ、それが必ずしも良いとは限らないけど、、、
その中で、社会人は同じことの繰り返し。特別「私は成長したなあ」なんて考えられるようなこともなく、振り返ることすらできないスピードで、日々はぐんぐん進んでいく。
ずっと置いて行かれてはいるけれど、背中は見えるくらいに、せめて、取り返しのつかないようなことにはならないようにはしないと、って、自分の中の全速力で、ずっとずっと走ってきた。

でも、こういう休日とか、金曜日の夜とか、ふと我に返った時に、社会人になって、私はただ仕事をこなした(こなせてない)、ただそれだけの2年間だったのではないか、ととても不安になる。
こうやって生きて、きっと数年後も、そうやって、私はただそれだけだったのではないかと感じながら、虚無感に苛まれるのではないかと不安になる。
仕事以外の時間なんてほとんど何もしていなくて、だらだらYouTubeをみて、Netflixをみて、寝て、そうやって数十年後を振り返ってみたときに、私は何もせず、何も手に入れられずの人生だったのではないかと、絶望する日が来るのではないかとおそれている。

だから、私はギターを弾いているのではないかと考えたりする。
ギターを弾いていることで、1つの曲が弾けるようになって、アルペジオが出来るようになって、グリッサンドが出来るようになって、そうやって日々着実に「出来なかったことが出来るようになる」成長や進化を感じられる。
私は仕事以外に、ちゃんと成長や進化をしているんだ、という明確な実感を、しかも日単位で感じることができる。
自分の漠然とした不安を、たまたま、ギターが埋めてくれたように感じる。
だから私は今ギターを続けられているのかもしれない。大学生の頃はろくに練習もしなかったのに。

以前、数年前か、十年以上前か、父親が言っていたことを思い出す。
「気づいたらこんな歳になってしまった。でも、お前たちがこういうふうに成長しているのを見ると、自分もちゃんと歳を重ねたんだな、と実感できる。自分も何か残せたんだなと思う。」(確かこんな感じのことを言っていた。)

私は今になって、頻繁に父親のその言葉を思い出す。
私はそれが、今はギターだけれど、もしくはこういう文章だけれど、いつか、父親のように思う日が来るのだろうか。
結婚したいとか、子供を産みたいとか、今はそこまで強く願ったりはしていないけれど、いつかそうなったときに、わたしは何かを残せたって思うのだろうか。私は父親にとって、そういう存在になれたということは、私もその時、何かを残せていたということなのだろうか。とか、考えたりする。今日この頃。

PS.「恋風邪にのせて」は8割くらい弾けるようになりました、たぶん、、、
 サビのバッキングのスピードを維持するのがむずかしい、、、

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