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おかえりモネは、日本の『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』〜恋愛至上でない親密さ表現〜

朝ドラ『おかえりモネ』を見ていて、気になっていたことがある。主人公・永浦百音(清原伽耶)ら若い男女4人の関係にどこか既視感があったのだ。思い当たったのが2020年公開の映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』(グレタ・ガーウィグ監督)だ。おかえりモネで描かれる多様な「親密さ」について考えながら、両作で共通するメッセージを読み解いていく。

1.亀のように歩む「スガモネ」

おかえりモネは、は宮城県の気仙沼や登米を舞台に、震災後の当事者や非当事者の歩みを描いた作品。百音(「ももね」と読む)と妹・未知(蒔田彩珠)、幼馴染の及川亮(永瀬廉)、診療所の菅波先生(坂口健太郎)の4人を中心にストーリーは進む。

本作では、菅波と百音の「スガモネ」ペアが恋愛の定型をずらす形で描かれるのが特徴だ。2人は徐々に親密さを増していくが、傍目から見ると亀のようにゆっくりと近づいていく。それゆえ、2人は親密さを自覚して互いに表現する前に、周囲に「2人はできているのでは」と噂されたり、急かされたり、先走られたりする。

2人の職場に集う中高年は、クリスマスシーズンの2人の会話を盗み聞きする。前年のクリスマスから恋愛的な進展が見えないと、「1年間何してたんだ!」と軽口をたたいて楽しむ。浦島太郎伝説での亀のようにいじめらこそしないが、いじられるわけだ。

作中の人々と結託して、視聴者側の多くもじれったさを表現していった。「百音と亮の関係はどうなるのか」とヤキモキしたり「百音には亮と付き合ってほしいor付き合ってほしくない」という、役者のファンからの叫びも聞こえてきた。菅波の「不器用さ」をチャーミングに捉えて、共感を寄せる「#俺たちの菅波」も話題になった。

作中では、百音と菅波はやがて自分たちの方法で親密さを表現して、ともに未来を考えていく。終盤ではすっかり余裕のある、かけがいのない親密さを手に入れたように見えた。2人の素朴な振る舞いに共感を抱いていた私も、「あぁ、いつの間にか追い越されてしまったあ」と感じた。うさぎが亀に追い越されたように。

亮と未知を含む4人の関係も一筋縄にはいかないが、安易にドラマチックな展開にはぶれない。描写は一貫していて説得力があった。ズレていた周囲も理解を示し、めでたし、めでたしとなる。

しかし、私は視聴を終えて、感想の共有も含めた視聴体験をうまく言葉にできない「もどかしさ」を残していた。関係のあり方に共感してホッとした一方で、恋愛への注目のされ方にしんどさを感じた。何より、その気持ちをうまく説明できないのがもどかしかった。

2.モネは「恋愛軸で生きていない」

感じたことを言葉にするのに時間がかかったが、文學界1月号の『<連続対談 “恋愛”の今は>第二回 濱口竜介×西森路代』がヒントをくれた。対談の中で『ドライブマイカー』の濱口竜介さんが、おかえりモネに言及していた。

最近、朝ドラ『おかえりモネ』を結構好きで見てたんですけど、その後にやっている「あさイチ」で、ヒロインのモネを演じた清原果耶さんが「モネは恋愛軸では生きてないキャラクターなんです」と言っていました。そのキャラクター理解も聡明だな、と思いましたが実際、モネと、坂口健太郎さん演じる菅波は、今までの恋愛像とずいぶん違っていたと思います。先ほど『偶然と想像』の第一、二話の登場人物たちの関係性について言及いただいたことと似て、間にある種の「距離」がある。そして、その距離そのものが大事である関係性が、『おかえりモネ』の若い二人なんですよね。言うなれば、距離があることが二人をより強く繋ぎとめている。それは、たぶん脚本の安達奈緒子さんが、時代の空気をきちんと汲み取りながら、朝ドラを更新しようとしているからなのかなと思いました。根底には以前と同じスタンスでは恋愛を描きづらいという感覚があるのではないか、と。それが全体的な傾向なのかちょっと分からないですけど、恋愛や性的な関係が孕んでいる暴力性に対して、忌避感を抱いている視聴者は増えているのでは、と思います。

「文學界1月号
<連続対談 “恋愛”の今は>第二回 濱口竜介×西森路代 おずおずと、やっていく」
(文藝春秋web媒体「本の話」より

このコメントを読んで、心が躍った。自分が感じていた違和感の輪郭が掴めたのだ。先に言ってしまうと、「おかえりモネは、恋愛や恋愛至上主義を相対化して、多様な親密さや人生選択のあり方を示している」というのが、自分が言語化できなかった気づきだった。そして、それは『ストーリー・オブ・マイライフ』を見たときに感じたものと相似形だったのだ。

まず、清原伽耶さんが「モネは恋愛軸では生きてない」と語った番組を確認しておくと、以下の展開だったようだ。

ゲスト出演した清原さんが「百音が菅波への恋愛感情を自覚したのはどのタイミングか」と質問される。清原さんは「百音は恋愛軸では生きてないので」と前置きをした上で、大事な人とはっきり意識したのは菅波が百音を抱きしめた時点だと答えた。(このシーンは事実上の告白場面で、この後2人は付き合うことになる。)
坂口さんが考える「菅波が恋愛感情を自覚したタイミング」はそれより早かったため、番組MCが「菅波先生は独りよがりだった」「一人相撲の大横綱だこれは」「我々も急ぎ過ぎていた」などとコメントをして、スタジオは笑いに包まれた。

2021年10月19日NHK情報番組「あさイチ」(番組配信終了のためTwitter情報を総合して構成)

恋バナのワクワクしたノリが満ちたスタジオで「恋愛軸で生きていない」と言い切ってしまえるということは、明確な演技プランだ。ちなみにそのプランは、坂口さんは共有していなかったようだ。作品内でも菅波のほうが積極的に距離を縮めていたし、はっきりした恋愛感情が出ていた。

3.百音と亮がたどり着く「親密さ」

さらに情報を集める中で、脚本家・安達奈緒子さんのインタビュー記事に、恋愛について答えているのを発見した。

――モネと菅波先生、また、未知、及川亮らの恋心を描くシーンで、盛り上がる視聴者も数多くいたと思います。

 人と人の距離を描くのがドラマの魅力の一つだと考えています。「恋愛」は、その距離が限りなく近づく関係性の一つであるし、人が他者との関係を深めていく過程には、やはり心を動かされるものがあると自分でも思います。
 ただ個人的には、恋愛はあまり良いものとは思っていません。負の情動をも生み出す危険な一面もまちがいなくあります。だからこそ、心から相手の幸福を願う人の姿は美しいし、心から信頼を寄せる人の姿も美しい。そういった純度の高い関係が、見てくださる方々を強く惹(ひ)きつけたのではないかと思います。また、自分ではない者を思う気持ちは、いわゆる恋愛感情である必要は全くなくて、何か違う感覚に行き着いてもよいのではないかと考えています。

「わからないけど、わかりたい」 おかえりモネ・安達奈緒子の思い:朝日新聞デジタル

 

「恋愛描写で視聴者は盛り上がっていましたね」という質問に、「恋愛はあまり良いものとは思いません」と答えるとは力強い。濱口監督の指摘とも一致する。具体的な登場人物への言及はないが、「自分ではない者を思う気持ちは、いわゆる恋愛感情である必要は全くなくて、何か違う感覚に行き着いてもよいのではないか」という言葉は、百音と亮の関係を想起させる。

百音と亮は恋愛関係になったことはないが、未知に「あの2人は昔から通じ合っている」と言われるなど、いわゆる幼馴染同士の親密さを築いている。感情を押し殺すタイプの亮が、唯一悩みを打ち明けられるのが百音だというのが周囲の人の共通認識になっていた。そんな2人の関係を象徴する、対照的な場面がある。

3.1 恋愛の危険な一面


1つ目の場面では、ある日、亮は押し殺してきた苦悩が我慢の限界に達して、百音のもとを訪ねる。その後、下宿先で友人らで話している時、百音は亮が1人抜け出してコインランドリーにいるのを見つける。友人らのいる部屋に戻ろうと言う百音を亮が引き留める。以下が、そのシーンだ。

亮「ごめん」
百音「何が」
亮「俺、昨日、なんか百音に変なこと言った」
(「俺やっぱモネしか(本音を)言える相手いない」という、前日の電話での発言が回想される)
百音「別に変なことじゃないよ。話したいなら聞くし」
亮「違う、そういう意味じゃない」
(亮がさらに百音を引き寄せ、顔と顔が近づく)
亮「わかってんでしょ」
百音「何でもするって思ってきたよ。亮ちんの痛みがちょっとでも消えるなら。でもこれは違う。私は亮ちんのこと可哀想とか絶対に思いたくない」
(亮が百音をさらに引き寄せ、両腕を掴む)
亮「それでもいい」
百音「これで救われる?」
亮「ごめん」(掴んでいた両手を離す)

おかえりモネ・79話より

握るという描写は本作でよく出てきて、握る感触は親密さを象徴するものとして描き分けられている。あたたかな光に照らされて、そっと包み込むように掴む場面もある。そ雨した場面と対比すると、亮が腕を掴んで引き寄せるのは暴力的に演出されている。セリフや状況と合わせて考えると「性的な関係になだれ込みそう」なハラハラ感があり、亮が「恋愛や性的な関係が孕んでいる暴力性」を示したと解釈できる。隠れて見ていた未知も「どうにかなるかと思った」と打ち明ける。

3.2 フラットな親密さ


その後、紆余曲折を経て百音は菅波と、亮は未知と関係を深めていく。そして、百音と亮は、穏やかで親密な関係におさまっていく。最終話で、同級生たちが集まる重要なシーンが、「恋愛ではない親密さ」を象徴する。

モネは震災の日に音楽の夢を追って島外にいたため、島で被災することを避けられたが、島にいた幼馴染や妹との間にわだかまりを感じて「私は島にいなかった」「何もできなかった」と後悔してきた。音楽を楽しんでいた自分を罰するように、百音はサックスの箱を固く閉ざして過ごしていた。

10年近くを経て無力感を乗り越えた百音は、友人や妹とともに再びサックスの箱を空ける。わだかまりのあった未知の「おかえり」に続いて、亮が「おかえり、モネ」と声をかける。百音は「ただいま」と応じると、未知の手をそっと握る。そして、亮もまた百音の手にそっと手をかけて、同級生らは再び輪になる。

ここでの亮が、表題回収を担うのは、この作品が百音と亮を中心とした物語であることの再確認でもあるし、かといってそれが恋愛には帰着しない親密さの中で果たされたという宣言でもある。百音の手をそっと触れる様はランドリーで抱き寄せるシーンとの対比の中で、温かな親密さを感じさせる。ほかの幼馴染も含めて皆で輪になる様子は、お互いに順位をつけないフラットで親密な関係性を印象付ける。

4.スガモネの恋愛は「恋愛」なのか

加えてここで重要だと思うのは、スガモネについても「いわゆる恋愛感情でなく、何か違う感覚に行き着いている」と言えることだ。

もともと、スガモネは医師の菅波と、高卒新人の百音という年齢や社会的地位で非対称な関係で始まる。そして、「国家資格は人の命を左右することに携わる資格のこと」と価値づけした上で、医師免許という国家資格を持つ菅波が、「何も持たない」百音の気象予報士試験合格を支えることを通じて、徐々に距離が近づく。

教師と生徒の関係なのでお互いに敬語を使い、振る舞いもどこか他人行儀。しかし、百音が資格をとって、ともに有資格者となってから関係が徐々に変わっていく。仕事上のパートナーとして、対等な立場でともに働く経験も経て、徐々に互いの葛藤を打ち明けて、それを受け入れ、支え合うように関係を深めていく。

ここまでで最初に出会ってから、5年ほどたっている。2人の間にいわゆる恋愛感情とされるような衝動や激しさはない。そして付き合い始める時も、はっきり「好き」「付き合おう」という言葉はない。あるのは菅波の「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」という言葉だ。まさしく安達さんの言う「自分ではない者を思う気持ち」が言葉として立ち現れている。

こうして考えると、頻繁に行われる周囲の人や家族、友人からの冷やかしや先走りは恋愛至上主義を前提として押し付ける社会や、何でも恋愛軸で評価して盛り上がる視聴者への皮肉と受け取ることもできそうだ。

5.『ストーリーオブマイライフ』に相似

ここまで見てきた主要4人の人間関係は、冒頭でも指摘したように映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』での人間関係と似ている。あらすじは、以下に引用した映画.comの解説を参照してほしい。(※引用の後にネタバレあり)

「レディ・バード」のグレタ・ガーウィグ監督とシアーシャ・ローナンが再タッグを組み、ルイザ・メイ・オルコットの名作小説「若草物語」を新たな視点で映画化。南北戦争時代に力強く生きるマーチ家の4姉妹が織りなす物語を、作家志望の次女ジョーを主人公にみずみずしいタッチで描く。しっかり者の長女メグ、活発で信念を曲げない次女ジョー、内気で繊細な三女ベス、人懐っこく頑固な末っ子エイミー。女性が表現者として成功することが難しい時代に、ジョーは作家になる夢を一途に追い続けていた。性別によって決められてしまう人生を乗り越えようと、思いを寄せる隣家の青年ローリーからのプロポーズにも応じず、自分が信じる道を突き進むジョーだったが……。

「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」解説
(映画.com)

補足すると、ベア教授というキャラクターがジョーに思いを寄せる人物として現れるが、喧嘩して一旦物語から退場する。その後、終盤でエイミーはローリーと結婚する。ジョーは自分たち4姉妹の物語を自伝的な小説「若草物語」として書き上げて出版社に持っていくが「主人公が結婚しない小説は売れないので出版しない」と言われる。ジョーは、出版に漕ぎ着けるためストーリ変更に同意し「ジョーに会いに来たベア教授への恋心を自覚して、引き留める」結末にする。

最後のシーンでは、ジョーが開いた学校でベア教授が働いているのが描かれているが、これが作品内の現実か、作品内事実すれば2人はどういう関係かについては曖昧にされている。ちなみに、史実としては本作でルイザ・メイ・オルコットは主人公を結婚させたくなかったが、出版社の求めで結婚させたという。

以上を踏まえると、百音はジョー、未知はエイミー、亮はローリー、菅波はベア教授に対応する。亮&ローリーは幼馴染の百音&ジョーに思いを寄せて告白するが、百音&ローリーは拒絶する。その後、亮&ローリーと未知&エイミーがパートナーになる。百音&ジョーは、亮&ローリーと恋愛感情でない親密さを保つ。

菅波&ベア先生は百音&ジョーに思いを寄せるが、逆向きの感情はなかなか明らかにならない。果たして恋愛したか、結婚したか、はっきりした結末を書かないことで、余白を残している。ちなみに、姉妹間でのわだかまりも共通している。

もちろん異なる点も多い。未知が研究、家の仕事、恋愛の間で何を優先すればいいかと悩む様子が描かれるが、その後、恋愛のことが決まらないと何も決められないと話す。そういった点で未知にとっては恋愛が人生選択で優先順位が高い。一方、エイミーは結果的に恋愛結婚のような形になるが、元々は裕福な家との結婚による家族扶養を第一としていて、恋愛軸だったのは長女メグだった。

このように、時代や場所、姉妹の数も色々と違うので異なる点は多いが、根底には同じテーマ性が感じられる。女性が主人公の青春物語として最前線で評価されているストーリーオブマイライフを、おかえりモネの製作陣が参照していても不思議はない。

6.モネ&ジョーは「恋愛しない人」なのか

このように見てくる中で、『現代思想2021年9月号 <恋愛>の現在』の中で、他者に性的欲求を求めない「アセクシャル」や恋愛感情を抱かない「アロマンティック」を自認する人々がいることを知った。完全にそうかどうかでなく、スペクトラム的に捉える考え方もあるという。

そうした人たちの存在や概念を知ると、百音もジョーもどことなくそれに通じるようには見える。ジョーをアセクシャルとみる声は一定あるようだ。一方で、百音は恋愛的ともとれる描写をされているし、付き合って結婚を考えているのではっきり恋愛感情がないとも言い切れない。

とはいえ、あまりそこを突き詰める意味はない気もする。はっきり描写されてはおらず、そもそも他人が恋愛感情を抱いているか外から見るだけではわからなくて当たり前だろう。

実社会で結婚している人でも、恋愛感情は実ははっきり分からないけど大事に思うのは確かだから結婚したという人もいるだろうし、それでその人が困っていないら何の問題もない。作中で周囲の人がくっつけくっつけとしつこいのにうんざりした私は、各人が各人なりに大事にしあえばそれでいいじゃんと、ただ受け入れる準備ができつつある。携わった皆様、素晴らしい作品をありがとうございます!

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