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A' 【29】

「ジンさん。あいつ、またいますよ。例の若い男」
 ジャムパンを頬張りながら、山鉾勘太は報告した。
 片手にパン、もう片手には双眼鏡を構えているので、肩と頬の間に挟んだ携帯電話が落ちそうになる。上司にはレーシック手術を受けるか望遠鏡を買えと言われているが、どちらも安月給では無理だ。経費でなんとかならないのかという相談は、するだけ無駄なので持ち掛けていない。
「ったく、あっちも男、こっちも男。野郎ばっかで嫌ンなっちまう。そっちと交代してくださいよ、ジンさん」
 だが、「あっちの男」の羽振りがいいのは確かだった。
 張り込みをするにあたって丁度いい位置の貸し物件を、依頼人自らが金を出して契約したのである。警察組織ならそれこそ経費で借りるのかもしれないが、山鉾の勤め先ではそうはいかない。今時、月数万円の家賃を自費で負担してまで、探偵事務所に張り込みの依頼をする客などそうそういない。男女の揉め事を解決するのはどちらかというと弁護士先生のお仕事だ。胡散臭い商売だという自覚はある。だから今回の依頼人は相当な変わり者だ。
「どこがイイんだか……あんなホネ女」
 指についたジャムを舐めながら、独り言のように呟いた。空いた右手で携帯電話を持ち直す。ジンさん、あんたもそう思うだろ? だが、電話の向こうから返事はない。
「女ってのはさ、もっとこう出るとこ出て……ジンさん、聞いてンすか?」
 機械の中にその人がいるわけでもないのに、どうして人はこんな時、電話機を睨んでしまうのだろうか。だがかろうじて、これが携帯電話だから意味を持つことがひとつある。
「ちくしょう、切れてやがる……」
 舌打ちをし、勢いよく閉じるとほぼ同時、今度は着信音が鳴りだした。
「ンだよジンさん! 言っとくけど俺は」
「例の若い男を連れてこい。事務所にだ。早急に、マホ」
「ああ?」
 一方的に電話は切られた。二度目の舌打ちをして、山鉾は立ち上がる。
 
 
 早急に、と言われたので自転車を猛烈に漕いだ。それも、荷台に男を一人乗せてである。その青年に事情を話し納得させるためのタイムロスもある。たぶん今も納得はしていないだろうが、「今に通報されるぜ」と脅すと青い顔をして従った。
 脅しであって脅しではない。依頼人の元恋人である女の自宅マンション前で、ここ数日の間、何時間も突っ立っているのである。大事そうに抱えていた野暮ったいバッグは自転車のカゴにぶち込んでやった。「こいつは人質だ」と言うと、ますます青年は大人しくなった。その様子を見てひそかに山鉾は緊張していた。何が入っているのだ? 堪え切れずに訊ねた。すると背後で、もじもじと答える。
「えっと……あの……。し、下着です」
 とんだ変態野郎である。恐らくこいつは、あのマンションに住む女の下着を盗みに入り、肌身離さず持ち歩きながら、いつかは外出するであろう持ち主を待ち伏せしているのだ。そしてどうする? 持ち主に出くわしたなら、その後は。
「か、返そうと……思って……」
 真正の変質者だ。山鉾の正義感がふつふつと音を立て始める。下着を盗まれた女性はきっと毎日怯えて暮らしている。外出なんて一歩も出来ずに、カーテンの隙間からこの男が待ち伏せている姿を見ては、恐怖のあまりに涙しているかもしれない。だが被害者のそんな姿を想像した時、山鉾の脳裏にもう一つの可能性が過った。そしてそれは限りなく正解に近い。
 朝から晩まで一度も開くことのない、締め切った黒いカーテン。このところ毎日、あくびをしながらひたすら眺めている窓だ。いくら張り込みをしたって無駄である。以前一度だけ実物を見たきりだが、どうしたらあんな骨ばった身体の女に執着できるのか、依頼人の趣味を疑うことしかできずにいる。
 上司がこの青年を連れて来いと言ったのだから、間違いない。思わず喉ぼとけが上下した。よほどの床上手なのか、あの女は。
「おい、まさか三島亜紀の下着か?」
 背中で大きな反応があった。的中である。半袖の腕に鳥肌が立った。こんなに自転車を漕いで汗だくだというのに、どんな怪談よりも素早くクールダウンさせる真実だ。今、荷台に乗せて運んでいるのは筋金入りの変人なのだ。だが青年は主張した。
「違います」
 泣いているのかと思うほどの弱い声だった。違うんです、ともう一度言う。山鉾は三度目の舌打ちをした。
「サツには言わねえから安心しろ」
「あの……」
「俺たちの仕事はそういうんじゃねえ」
「仕事って……」
 青ざめた顔が背中を貫通して目の前に現われるようだった。コソコソとした奴が山鉾は大嫌いだ。そのくせこの青年は真実を知りたがる。声が震えるほど怖いくせに、走る自転車から飛び降りる度胸もなく、痛みを恐れながらどうか傷付けずに教えてくださいと、それすら言葉にしないで知りたがる。卑怯だ。それに、これといって不細工でもないのが腹立たしい。どこがいいんだ、三島亜紀なんか。
 わざと急ブレーキをかけて、山鉾は自転車を止めた。青年が転がり落ちる。みっともなく尻餅をついた姿を見下し、告げた。
「話は中で聞かせてもらう。ひとッかけらも残さず、な」
 じりじりと青年は立ち上がり、看板の文字を声に出して読んだ。
「神崎、探偵事務所……」
 さっさと入れ、と青年を押し込んだ。
「ジンさーん連れて来たぜ、っと、危ねえ」
 飛び出す勢いで現れた男を取り押さえる。山鉾が高校ボクシングの元チャンピオンでなければ、危うくその鉄拳が坂本祐介の顔面を直撃するところだった。
「おまえか! おまえが亜紀を寝取ったのか!」
「はいはい落ち着いてね、混内山さん。ご依頼は浮気調査じゃないでしょ」
 依頼人は唾を飛ばしながら坂本祐介に掴み掛ろうとする。無精ひげがチクチクと触れるのが気持ち悪くて、山鉾は力加減を強くした。そのまま引きずるように奥へと押しやり、ソファに収める。
「やあ、坂本君。よく来たね」
 アニメに出てくるボス役のように、逆光の中で上司が言った。
 神崎亮一、この探偵事務所の主である。助手遣いの荒い探偵は席を立つことなく、坂本への説明を命じた。
「あー、じゃあまず。おい、座れ。坂本」
 未だバッグを抱きしめている青年がおずおずとソファに腰を下ろしたのを確認して、山鉾は語り始める。
 三島亜紀の元恋人、混内山聡がこの神崎探偵事務所に調査を依頼した経緯である。


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