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A' 【30】

 恋人の様子がおかしい。それは今に始まったことではないが、彼女が信頼を寄せている精神科医の素性を調べて欲しい。六月上旬、そう相談を持ち掛けられた時まず最初に、その精神科医というのは男なのかと、神崎は思った。ありがちな浮気調査である。しかし混内山聡の言い分はこうだった。
 ななみクリニックというのは架空の病院なのではないか。
 彼女が飲まされている薬は本当に医療用のものなのか。
 そもそも、高柳七海という女は本当に、医師なのか。
「え……じゃあ、混内山さんはとっくに気付いてたってことですか?」
 馴れ馴れしく口を挟んだ坂本祐介を依頼人は無言で睨み、睨まれた青年は「すみません」と小さく言った。山鉾が咳払いをし、話は進む。
 いわゆる違法薬物が絡んでいるとなると深刻だ。しかし探偵業二十余年の神崎はそれなりに、そういう輩の顔つきや挙動というのを知っていた。だからまずはその、様子がおかしいという恋人の様子を見てみることにした。
 三島亜紀という女がテレビも持たず、一人では出歩くこともなく友人もいない、半引きこもり状態であることはむしろ都合が良かった。行方不明の孫を探す新聞屋の男を装い、簡単に三島亜紀との接触を果たす。
 第一印象では違法薬物中毒者なのか、はたまた精神を治療中の患者なのか、正直判別できなかった。だが依頼人から聞かされていた「鍵の閉まった謎の部屋」に触れた時、異変は起きた。
 この部屋に何があるのか。鍵はどこだ。詰め寄る神崎から逃げるように三島亜紀は後退する。やはり中にブツがあるか。しかし三島亜紀は動きを止めた。玄関で待たせていた山鉾のほうをじっと凝視し、震え、纏っていたタオルを落とし、その場に倒れた。
 彼女が倒れる直前、蚊の鳴くような声で呟いたのを神崎は聞き逃さなかった。
 オバケ、と。
 三島亜紀はやはり薬物中毒で、幻覚を見ているのかと思った。救急車を呼ぶように山鉾に命じる。が、彼女はすぐに起き上がり、まるで別人のような顔つきになって言った。
「お見苦しいところをお見せしました。その部屋の鍵はすぐに開けますから、聡さん、少し出ていてください。恥ずかしいので」
 
「コマちゃん!」
 坂本祐介が叫び、立ち上がる。混内山は眉をしかめ、次の瞬間掴み掛った。山鉾が動く。
「おい……ガキ、何を知ってる。言え!」
「あなたには言いたくない! マイカさんに乱暴したあなたに!」
「はあ?」
「コマちゃんもきっと、あなたにあの部屋を見せたくなかったんだ。コマちゃんは……コマちゃんはマイカさんを守ったんだ! なのに、なのにあなたは」
「いい加減にしろよ」
「はいはいはい、落ち着いてねーお二人さん」
 両者を引き離した山鉾から目配せを受け、神崎は頷いた。
「信じがたい話ではあるが、どうやらそういうことのようだね」
 解離性同一性障害。一昔前で言う「多重人格」だ。坂本祐介を呼んだのは、それを確認するためでもあった。確かに神崎は、三島亜紀と坂本が近所の公園で仲睦まじくしている姿を確認してはいたが、それは浮気とは呼べないということになる。三島亜紀が混内山と別れた原因は坂本ではなく、単純に混内山が暴行したからだ。
「あんたらが……さっさと調べないからだろ」
「調べてますよー。一旦コーヒー飲みます?」
 山鉾の勧めを断り、混内山はバツの悪そうな顔を背けた。坂本はと言えば顔を真っ赤にしたまま目を泳がせ、怒りと興奮を抑えるので精一杯といった様子だ。鼻の穴が膨らんだ彼へと手渡されたのはコーヒーではなく、水の入ったペットボトルだった。
「さてと……どこまで話しましたっけ」
 山鉾は資料をめくる。ここからが本題と言っていい内容だった。坂本祐介が重要参考人となるもうひとつの確認事項である。雑な手つきで資料をめくる山鉾が頭をガリガリと掻いて言った。
「ジンさん、ここ説明しなきゃダメっすか? 仁美ちゃ……銀行の姉ちゃんのくだり」
「マホに任せるよ」
 嫌そうな顔を見せた山鉾だったが「じゃあ」と呟き、資料のファイルを机に放った。代わりにA4サイズの茶封筒を手に取る。取り出したのは一枚の写真だ。
「おまえ、この女に見覚えは?」
 問われ、坂本はじっとその写真を見るが、やがて首を横に振った。
「もうひとつ。広岡夏樹という名前に聞き覚えはあるか」
 その質問には表情を変える。知っているのか、とさらに問われ坂本は頷いたあと、自分のバッグから一冊の通帳を取り出した。名義は三島亜紀だ。
「マイカさん……三島さんの別人格の……彼女からたぶん、託されました」
 受け取ったそれを、山鉾は開いた。そしてすぐに閉じる。ジンさん、ビンゴだ、とため息交じりにつぶやき、坂本に向き直る。
「おまえはその……三島亜紀の別人格の、マイカちゃんだかコイちゃんだかと付き合ってたんだな?」
「コマちゃんです」
「おう、そうか。……で、あのマンションで何があった? なんでおまえは追い出されたんだ」
 会話はそこで途切れた。互いにじっと見合い、先に反らしたのは坂本だった。やがて、ぽつりぽつりと語り始める。耳を澄まさなければ聞き逃しそうな弱い声だった。事務所内には坂本の告白と、蝉の羽音だけが聞こえていた。
「なるほどな。で、マイカちゃんはそのバッグに色々ぶっ込んでよこしたっけわけか。他に何が入ってた? 下着はいいぜ、見せなくて」
 何か言いたげに坂本が黙ったのはほんの数秒だった。傷心の青年はバッグから次々と物を取り出す。
 フォトフレーム、四つ折りの紙、大学ノートと一台のスマホ。これで全部です、と投げやりに言った。
 フォトフレームに入っているのは写真ではなく水彩画だった。訊かれる前に坂本は言う。それがコマちゃんです。俺の、コマちゃんです。山鉾はじっとその絵を見つめたまま「確かに似てないな」と呟いた。
「三島亜紀にさ。ねえ、混内山さん?」
 混内山はちらりと視線を向け、不機嫌そうにフンと鼻を鳴らしただけだった。こいつもしまっておいていい、と告げ坂本に返すと、山鉾は次に大学ノートを手に取った。ゆっくりとページをめくり終えると、再び神崎へと目配せが届く。
「いい筋してんな。画家はやめてウチに来ねえか?」
「……」
「冗談だって。……で、こっちはなに……」
 山鉾の顔色が変わったのは、四つ折りにしてあった紙を開いた時であった。
「ジンさん」
 大股で山鉾が歩み寄り、デスクにそれを乗せた。
「坂本君。これはどうしたのかな?」
「コマちゃんが……たぶん、コマちゃんが隠していました。通帳と一緒に」
 それはカラーコピーされた写真だった。まだ新しい。ごく最近コピーしたものだろう。しかし元の写真そのものは古い。制服姿の少女が二人と、その間に小さな女の子が一人。二人の少女のうち一人はセーラー服で、真面目を絵に描いたような立ち姿だった。対してもう一人は真逆の、いかにも不良っぽい見てくれをしている。明るい色の髪を片側だけ耳に掛け、自慢のピアスを見せているようだ。
「これはすごいねえ。マホ、何ゲージくらいかな?」
「0ゲージはあるでしょうね。女子高生がこんなんしてるなんて、まあ、時代だな」
「坂本君、ちょっとこっち来てくれるかい」
 煮え切らない顔つきながら坂本はデスクにやって来た。神崎は写真を指し、これらが誰か分かるかと訊いてみる。坂本はまず、小さな女の子を指さして「たぶん、三島さんですよね」と小さく言った。正解だ。今度は神崎が指す。セーラー服の女子高生だ。坂本は首を横に振る。
「では、こっちのカノジョは?」
「これは高柳先生でしょ。最近初めて会いましたけど」
 目元があまり変わってない。坂本はそう言った。
 沈黙が流れる。神崎は山鉾を見た。山鉾もまた、神崎を見ていた。
「君の彼女のコマちゃんは、全て知っていたようだね」
 言うと、坂本は眉をひそめる。愛のなせる業、という言葉が神崎の脳裏に浮かんだ。マホ、説明してあげてくれと言いかけた時、坂本祐介はハッとした様子で口許に手をやった。視線は隣の山鉾に、その耳たぶに残る不格好な穴にあった。
 現在三十代の山鉾は若い頃、ピアスをしていたと神崎は聞いている。聞かされなくともその耳たぶを見れば分かることだった。拡張、という。初めは小さなピアスホールを、時間を掛けて徐々に広げてゆくものだ。拡張専用の器具もあり、要はピアスのサイズを段階的に大きくしてゆくのである。一度そうやって広げた穴は、ピアスの着用をやめても完全に塞がることはない。太さの単位は「ゲージ」で、数が減るほど太くなる。山鉾は2ゲージまで広げてやめた、と語っている。
 写真の少女を見て彼は言ったのだった。0ゲージ以上でしょうね。
「なかなかの洞察力だね坂本君。本気でウチに来ないかい?」
 マホより役に立ちそうだ、と冗談を言ったが坂本の表情は固まったままだった。
「そう。このギャルは高柳七海だよ。本物のね」
 じりじりと、坂本の目が神崎を見る。額に汗が光っていた。神崎は今度こそ山鉾に説明を促した。宙を見つめ、一度息を吐いてから山鉾は告げた。
「高柳七海は八年前から、行方不明だ」
 ぽたり、坂本祐介のこめかみから、汗が流れ落ちた。


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