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A' 【31】

 二人が出会ったのは、高校二年生の秋だった。落ち始めた木の葉を踏みながら、夏樹は憂鬱を噛み締めていた。来年になったら本気で進路を決めなくてはならない。むしろ遅い。だが本人の心がいまだ定まらないことなど、周囲は誰ひとりとして気付きもしない。
 家は代々医師ばかりで、当然のように娘も医科大学に入れるつもりでいる両親の前では、夏樹の意思など無いも同然に思えた。教師も同じだ。広岡さんは外科医? それとも内科? 成績も家柄もトップクラスな広岡夏樹という生徒には、医師以外の選択肢は無いのだと思っている。学校全体がそうだ。広岡総合病院の跡継ぎ娘が我が校を卒業して有名医科大に進学することこそが彼らにとって一番大切なことなのだと、若者はひっそりと見抜いていた。怒りはとうに捨てた。寂しさもすでにない。むなしい。
「亜紀ちゃん、葉っぱならいっぱいあるよ!」
 若い女の声だった。見ると、小学校低学年ほどの女の子が自分の方へ駆けてくる。すっかり冷たくなった風に乗るように走る彼女の頬は赤く、目は真剣だった。
 足元に、大きな緑色の葉が滑るように着地した。どうやら女の子はこれを追いかけて来たらしい。夏樹はそれを拾い上げ、手渡した。
「葛の葉ね」
「くずのは?」
 愛らしく唇を動かして、女の子はきょとんとした。
「ごめんごめん、ありがとう。亜紀ちゃん、ありがとうは?」
 息を切らして追いついた女が言った。夏樹とは別の制服を着た、不良っぽい高校生だった。たいした距離でもないのにそんなに息切れがするなんて、きっと煙草でも吸っているんだろうと夏樹は思った。嫌いなタイプの人間だ。そのまま立ち去ろうとした。
「ねえねえ、どうして葛の葉は紅葉しないの?」
 訊ねてきたのは不良娘のほうだった。素朴な質問が意外過ぎて、思わず彼女を見る。向き合ってしまった。
「葛は……多年草だから」
「えっ、待って待って、ジョウリョクジュとかいうやつは?」
「常緑樹は、だって……木だもの」
「ああ、そっか! え、じゃあさ葛は何者なの?」
「マメ科の植物。夏に花が咲いてたでしょう。そのあとに鞘ができてるわ」
「豆なの? だからこんなにニョロニョロはびこってやがんのかあ」
 自分の額を手の平で打って、不良娘は葛の弦を見上げた。「はびこっていやがる」という言い回しが少しおかしくて、夏樹は不本意にも笑った。
「そんなに邪魔にするもんじゃないわ。根は薬になるし、葛餅だって……葛餅って知ってる?」
 知ってるよ! と少し怒ったように彼女は答えた。けれど不思議と、本気で怒ったわけではないのが分かる。
「ウサギが好んで食べるし」
「マジ? じゃあこんなにあるんだからひと儲けできるかもね」
 いよいよ夏樹は声を出して笑った。「やだ!」と言ったが、それも本気じゃない。こんなふうに慣れあうのは久々だった。いつぶりか? 中学生の頃はすでに、周囲と上手くいかなかった。小学生の頃は? 勉強ができるから、いじめられた。理不尽だ。
 けれどこの不良は、夏樹がどんなに知識を披露しても目を輝かせて面白がってくれるのだった。気を良くしたわけではないが夏樹は更に、海外では「ジャパニーズ・グリーン・モンスター」と呼ばれる厄介な外来種だということを教えた。
「へえ。外来種っていうとつい、外国のやつばっか思い付くけど、そういや外国では日本の植物が外来種かあ」
「そうね、日本の在来種はデリケートでナイーブなものばかりってイメージあるわよね」
 そうそう! と勢いよく同意した彼女は、あれもそうだしこれもそうだと、次々に在来種の名前を挙げた。山野草や山菜が多い。不良っぽい見た目からは想像もつかない彼女の趣味について、今度は夏樹のほうが興味を抱いていた。植物が好きなのかと訊くと彼女は答える。
「好きっていうか、うーん。まあ、好きかな」
 きっと彼女の生活の中には、当たり前のように自然との触れ合いや共存があり、敢えて植物が好きだと意識することもないのだろう。
「なみおねえちゃん」
 蚊帳の外にされていた女の子が、ぐいと見上げて彼女を呼んだ。なみ、というのか。どんな字を書くのだろう。
「おまめ、あるの?」
 葛の話だろう。あったとしても食べられない。馬鹿な子供だ。
 彼女――「なみ」はしゃがんだ。短いプリーツスカートの中には黒いスパッツを履いていた。下着をチラつかせる趣味はないのだと、夏樹は安堵する。じゃあどうしてそんなに制服を短くしているの? ああ、そうだわきっと、動きやすいからだわ。この人は下品な人種とは違うんだわ。
「お豆はねえ、もう無いよ」
 幼い子供と目線を同じにして、彼女はにいっと笑う。「どうして?」と夏樹も心で訊ねた。どんな理由があるのだろう。わくわくする。
「お花は摘んで、お茶にしちゃったもんねー」
 どきん、と胸が高鳴った。
 膝がふわふわする。
 葛花の甘い香りが、ありありと蘇るようだった。
 あなたのことをもっと知りたい。それはまるで初恋だった。
「ねえ、お名前はなんていうの。私は広岡夏樹」
「あき!」
 挙手をした幼子が鬱陶しく思えた。あんたじゃないわよ。ハハハ、と軽やかに笑い、葛花の君がついに名乗る。
「あたしはナナミ。高柳七海だよ」


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