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恩師に会いたい

わたしの恩師はM先生という。
大学時代に教えていただいた先生だ。M先生は哲学科の教師で、わたしは哲学を習った。
また、仏教の師でもある。
ときどき、先生はどうされているかな、と考える。

先生はわたしを可愛がってくださり、おすすめの音楽(グレン・グールドとか)を教えてくださった。
わたしは卒論で、スピノザという哲学者の哲学を取り扱ったのだが、卒業後に先生とご飯を食べているとき、
「賢者が恐れないものはなんだと思う?」
という、スピノザに関する質問を出されて、
わたしが「死です」と答えると、
「ちゃんと覚えてるじゃないか」と笑っておられた。

法友(共に仏法を聞く友)のお寺でご法座が開かれたとき、先生がおはなしに来てくださった。
懇親会で、先生とお話しする機会があった。
そのときわたしは精神的に調子が悪く、涙を流しながら、「死にたくなることもあります」という話をした。
先生は酔っ払った目で、しかし穏やかにわたしを見て、
「でもまあ、死なんといてや」と言ってくださった。
そのときのことを、掛けてくださった言葉を、今でも覚えている。
そしてときどき、先生にお会いしたいと思い、わたしは生きていますと胸の中でつぶやいている。
先生は、「心安らかに生きてほしいんですよ」とも言ってくださった。
親鸞聖人のおっしゃった、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」ということばを思い出している。

また、先生はかつてわたしが大学生だったとき、時間を割いてくださり、仏教についてお取り次ぎくださった。
そのとき、「仏法は師を踏みつけにしても聞いてください」と言っておられた。
そのお心に、今も涙が滲む。
「師主知識の恩徳もほねを砕きても謝すべし……」と恩徳讃では歌うが、先生がわたしのためにほねを砕いてくださったのだと思う。

先生。
無常の風は今も吹いていると聞いてきました。
わたしもいつ死ぬかわかりません。
だから、またいつか先生にお目にかかりたいです。
先生と仏法の話がしたい、そしていろんな話をしたいです。
そして先生の「でもまあ、死なんといてや」を思い出すたび、わたしは「なんとか生きています」と胸の中で答えています。
先生のことを思い出すたび、わたしは仏法を聞かねばならないと思います。
それが、先生の与えてくださった大きなものにご恩返しする方法だと思っています。

先生。
どうぞお元気で。
(でも、お元気でなくてもそれはそれでいい、というか、そんなこともあると思っています)

ねこ太より。


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