秘密屋 ー自転車ー
公園にある美術館に喫茶店が隣接されている。いつもは静かな店内も今日は課外授業で訪れたのか制服の学生達で騒ついていた。カウンターで白いシャツに焦茶色のエプロンを付けた店主から珈琲を受け取る。テイクアウトにして美術館から出ると公園内を通り抜ける幅広の道路に沿って置かれたベンチに腰掛けた。午前十時。欅や櫻が作る木陰を時折吹く風で揺れる葉の音。ジョギングで通り過ぎる足音。静かだ。朝食代わりの珈琲を飲みながら少し離れた所で自転車の練習をする親子を眺めていると「おや、こんにちは。」と声をかけられた。振り向くと笑顔の東峠さんが立っていた。いつも通り和服で左手に青く長い紐を持っている。
「マサヒコが随分引っ張ると思ったら、秘密屋さんがいたんだねぇ。」
青い紐が垂れている先を見ながら「こんにちは」とマサヒコに挨拶して東峠さんにも挨拶した。
「隣に座ってもいいかな。」
「えぇ、どうぞ。」
東峠さんが腰掛けると青い紐の先端は膝の上に乗せられた。手が紐の先端を囲むように添えられる。天気とマサヒコの話を少しした後、東峠さんは「ひとつ頼まれて貰えないだろうか」と言い出した。
「私にも家族が出来てね。妻の胡桃は二十歳、息子の輝は五歳なんだが…孫とひ孫ほどの歳の差だろう?年甲斐もないと笑うかな。」
「東峠さんはずっと独身なのかと思ってました。」
「私もそう思っていたよ。珍しく雨なのに外へ出たがるマサヒコに引っ張られて外へ出て、幼い輝の手を引いて遮断器をくぐろうとする胡桃を見つけたんだ。秘密屋さんと同じ、マサヒコが繋いでくれた縁だと思って二人を家に住まわることにしたんだよ。」
東峠さんはマサヒコを優しく撫でた。
「その女性の素性を調べたい、とかですか?」
「いや、胡桃の過去はいいんだ。ひどい環境から逃げ出してきたのはもう知っているからね。秘密屋さんに頼みたいのは、二人の未来だよ。」
「未来?」
「私が死んだ後も二人が困らないように妻と子として籍を入れたんだ。だから金銭的に二人を支えることは出来る。しかし精神的には支えられない。」
青い紐の先端は東峠さんの膝から地面に落ちた。
「まだ二人とも若いから判断を誤るような事があるかも知れない。そんな時に、秘密屋さんに私の言葉を伝えに行って欲しいんだ。墓場まで持っていく秘密と言うより、死んでも残る気持ちってやつだね。もちろん、一生って事じゃない。信頼に足る人物と胡桃が出会うまで、だ。」
真っ直ぐに前を見ている東峠さんの横顔は優しく穏やかだった。
「胡桃さんは信じますかね。」
東峠さんは笑って頷いた。
「秘密屋さんの事は伝えておくよ。輝にはちゃんとマサヒコが見えるから、マサヒコが尻尾を振った人は信じるようにってね。」
「二人を騙すかも知れませんよ。」
青い紐の先端が足元に絡まりつく。
「マサヒコに噛まれるよ。マサヒコは輝が大好きだからね。私も毎晩枕元に立とうかな。」
「それは嫌だなぁ。…これ、断っても夢枕に立ちますか。」
青い紐の先端は足元から膝に登った。
「秘密屋さんは断らないってマサヒコも分かってるようだよ。これは頼み事じゃなくビジネスだ。ちゃんと支払いは済ませてから逝くから安心して引き受けてもらえるかな。」
断らせる気なんか無いだろうに。
「返事するまで、もうしばらく長生きしておいて下さい。」
目の前を自転車がふらつきながら通り過ぎる。「絶対に手を離さないでね。」と言う声を追いかけるように青い紐がピンと引っ張られた。とうに手を離していた父親はチラリと青い紐を見ただけで「離してないよ。」と言いながら自転車を追いかけて行った。
え!?サポートですか?いただけたなら家を建てたいです。