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針ほどの月明かりー8ー

クラーケンが好きな馬が勝った日はいつも上機嫌で出かけていく。負けた日は機嫌が悪く、怒鳴られたり殴られたりする。今日は久しぶりに勝ったのが嬉しかったのか変な鼻歌をふんふん鳴らしながら出て行った。こんな日は夜中すぎか翌日まで姿を現さない。僕たちは襖を開けて思い切り伸びをした。新聞やビールの缶なんかが散らかった部屋でテーブルの下や枕の下や、脱ぎっぱなしのズボンの下なんかを探して小銭を拾う。僕たちも久しぶりに駄菓子屋さんへ行くんだ。外へ出ると優しい風が流れていて、塀や木の影を選ばなくても気持ちよく歩けた。誰もいない公園でブランコに乗って、今日は何のお菓子を買おうかと話しながら歩く。きっと今日もお店のおじいさんは本を読んでいて、僕たちを追い払ったりも話しかけたりもしない。名前を聞いたりもしないだろう。ブランコを降りて公園を出たら信号を渡って二軒目。踵を踏んで履いている運動靴が脱げないよう注意しながら走っていくと、マンションの一階にある小さな駄菓子屋さんは閉まっていた。半分ほど降ろされているシャッターを下からのぞくと暗い店内に人影が見えた。

「すみません、今日はお休みですか。」

近づいてきて顔を見せた人影は、いつものおじいさんではなくジャージを着たおじさんだった。

「いや、休みじゃない。ここはもう閉店だから他へ行きな。」

「えっ。」

真白が僕の後ろに隠れる。クラーケンみたいに身体の大きなおじさんが怖いんだろう。僕だけに聞こえるような小さい声で言った。

「もうお菓子買えないの?」

真白の代わりに僕が聞く。

「あの、おじいさんはこのお店辞めちゃったんですか。」

ふぅ、とおじさんがため息をつく。

「じいさんね、もう亡くなったんだよ。わかる?死んじゃったの。じいさん、家族とか居ないからおじさんが片付けてんの。ここはもう他の人に貸すから駄菓子屋は閉店。お菓子なんかスーパーでもコンビニでも売ってんだろ。そっち行きな。」

おじさんはクラーケンみたいに舌打ちして、また暗い店内に戻って行った。

ずるずると靴の踵を引きずりながら僕と真白は歩いた。一ヶ月。蝉はもう鳴いていない。真っ赤なアキアカネが飛んでいる。おじいさんはもういない。もう駄菓子屋は無い。もう一ヶ月以上もママは帰ってこない。顔をあげると小さな公園まで戻ってきていた。誰もいないブランコ。僕たちはこの一ヶ月、ただじっと襖が閉められた押入れの中で静かにしていた。クラーケンが怖くて出られなかった。蝉はもういないのに。アキアカネが飛び始めたのに。おじいさんは死んじゃったのに。ちゃんと時間は流れているのに、僕たちだけが暗く四角い押入れの中に閉じ込められていたんだ。

真白の小さな手をつかみながらボロの運動靴をじっと見る。

このまま帰ったら。またクラーケンに怯えて押入れに入ったまま、今度はきっと冬だ。

このまま帰らなかったら。どうなるだろう。誰かに助けを求めても、またクラーケンの元に連れて行かれるだけだ。その誰かはクラーケンに注意して帰るんだ。そのあと僕が酷く怒鳴られ、殴られるなんて知らずに。クラーケンにも誰にも見つからずに逃げるにはどこへ行けばいいんだろう。

海賊は海へ。宇宙飛行士は空へ。僕たちは…そうか無人島だ。そこなら誰もいない。

「真白、海へ行こう。」

「海?人魚姫いる?」

「わからないけど、クラーケンはいない。」

真白が目をパチパチさせた。

「行く!」

僕たちは急いで家に戻った。クラーケンはきっとまだ戻ってこない。急いでリュックに荷物を詰めよう。もっとお金が無いか探そう。冷蔵庫を見たけど食べるものは無かった。空のペットボトルを二つと割り箸とライター。無人島では飲み水と火が大事だから。リュックを背負い、運動靴を履く。真白は…ママの赤いサンダルで海まで歩けるだろうか。

「ちょっと待ってて。」

真白を玄関に待たせて部屋に戻る。真白はサンダルしか無いから途中で足が痛くなるだろう。薬が入った引き出しを開けて絆創膏を探す。

「…お兄ちゃん…」

真白の小さな声が聞こえた。子供用風邪薬の横に絆創膏を見つける。

「よし、あったぞ。」

振り向くと同時に景色がすごいスピードで横に流れた。身体の右側が襖にあたって大きな音を立てる。床に倒れた僕の頭を、ぐい、とつかまれる。

「コラお前、どこに行くつもりだ。」

ぼやけて見えなかったけど、クラーケンの低い声が聞こえた。今度は景色が前に流れて背中が壁にぶつかった。クラーケンは無理矢理に僕の背中からリュックを引き離して投げた。また景色が横に流れて血の味がした。

「荷物なんか持ちやがって。」「逃さねぇからな。」

などと言いながら何度も何度も殴られる。真白の泣き声が聞こえてクラーケンの手が止まった。

「うるせぇな。」

真白。まだ小さな真白がクラーケンに殴られたら死んでしまう。ぼやけた目に見えるクラーケンの足にしがみつく。

「何だよ、離せよ。」

クラーケンはまた僕を殴りつけ、足から手が離れると蹴り上げた。痛い。痛いけど、僕はお兄ちゃんなんだから、真白を守らなくちゃ。そうだよね、ママ…

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