『内臓とこころ』を読んで(読書の秋2022参加)

 著者は、解剖学者であり、東京芸術大学教授だった。解剖しても、具体的な形として見えてこないはずの”こころ”について述べている。三木成夫先生のプロフィールも不思議だが、本のタイトルが、解剖学で扱うテーマからかけ離れているようなのも不思議だった。

 表紙は解剖学者である三木先生のスケッチ。赤ちゃんの顔だ、と思い本を手にした。正面を向いたその顔は、すでにヒトの顔に近い。
 私もおなかの子のエコーをプリントしたものを保管しているが、多くが背中を丸くしている。そういえば、おなかの中の赤ちゃんが育つ様子を紹介する絵本でも、母親の丸いおなかの中で、胎児は丸まっている。足も曲げていて、そのため、たいていは性別がわかりにくい。あの空間での、居心地がよい姿勢なのだろう。母親の方でも、大きくなると正面を蹴られるとかなり痛いので、うまく収まっていて、と願う。だから、顔を正面から捉える構図は珍しいなと印象に残った。

 解剖学がどういう学問か詳しく知らないが、解剖によって見えてきたものをスケッチし、比較したり、分類するのだろう。見たものをそのまま描くのが解剖図で、科学寄りな学問だと思う。
 一方で芸術作品は、こころに浮かぶものを描くだろうから、解剖図とはかけ離れている。でも、描きたい対象の骨格なり、内面を思い浮かべながら作品を作るのは、芸術を追求するにあたって大事ことだろう。そこで芸術大学でも解剖学を学ぶのだろう。

 では、解剖して切りひらいても、見えない、触れることのできない部分である、こころについて述べるにはどうしたらいいか。
 そこで著者が使う資料が興味深い。

 例えば、1. グラフ(睡眠のリズム)。2. 図版(サメと人の喉の比較)。3. 子どもの写真(子どもが物を指差ししている)。4. 芸術作品(仏画とロダンの彫刻の写真)。これらの資料を使って作文せよ。題名はこころ。というお題が出たら、すぐには共通点が思い浮かばない。とくに解剖学と直結する2. の資料を使うのが難しい。

 著者はこれらを使ってこころについて解説していく。
しかし、解剖学者の本なのに、解剖図の比重が少ない。なぜなら、この本の軸は、1980年代に開催された保育園での講座であり、著者の持つ第三の目線(第一は解剖学。第二は芸術)=子供の成長を見守る父親としての視点をベースとして話を進めるからだ。
 とくに、Ⅲ章こころの形成 の解説は楽しく、確かにそうだった、と子育てを通して思い当たるポイントがあった。子どもの感覚が目覚めていく過程を追うと、見えないはずの、こころの輪郭も見えてくる。
 接点が見えてこないの資料を並べて、つなげていくことも、解剖学の大事な作業なのだろう。解剖学者としての、芸術作品の読み解きや、彫刻専攻の学生との対話も加わり、共感しやすいものになってくる。

 保育園の講座の補論で著者は、脊椎動物の胎児の比較発生学を研究していたと述べている。表紙の絵は38日目の胎児。すでに哺乳類の顔になっている。この絵を含む、4つの胎児の正面図のスケッチが並ぶ頁がある。
 ゴジラのような顔のサメの仲間のラブカに始まり、ヒトの赤ちゃんのように目が離れているミツユビナマケモノと、それぞれ正面から見た生物の写真と比較する。短い期間での成長と変化がわかる。母親のつわりが始まるころの、お腹の子に気づくか、気づかないかのあっという間の時期であるが、まさに進化の縮図が記録されている。そして、38日目の胎児にも、サメの鰓を思わせる裂け目がある。手足にはまだヒレがある。

 これらは著者自ら解剖し、正面をスケッチしたことによる比較だった。
この、丸まっていたり、歪んでいる本来の形を、なんとかしてこちらに向けて捉えたい。という緊張した気持ちが、解剖学の始まりなのではないかと思った。こちらに向けて、比較してこその発見や感動があるはずだ。
 この熱量は、芸術を追求するときの気持ちにつながるのではないか。しかし、ホルマリンに漬けられていたとはいえ、かつて動いていたであろう対象にメスを入れるのは、相当な覚悟が必要だったろう。


 たとえば魚をさばいて、取り除くのがはらわたで、これは内臓系である。それに対して、身として食べる部分が体壁系となる。
 こころは内臓系に属するものであり、宇宙の波動に共振しているという。睡眠相遅延症候群、内臓の感受性、月の満ち引きなどが、はらわたに影響していると述べる。

 こうした問題は、40年経った今の時代も、多くの人が不思議に思ったり、悩んだりすることと深く関係している。私たちがすでに断片的にいろいろな本や資料で、部分的に聞いたり、読んだりした知識とつながってくる。
 今なら低気圧と自律神経の問題なども加わるだろう。図書館でトイレに行きたくなる問題を解くヒントになるかもしれない。私たちは頭で考える理屈だけではなくて、はらわたのリズムを聞こうとしなければならない。


 言葉は鰓呼吸から生まれたという。陸地へ上がり、両手が自由になったいまも、はらわたで何かを感じる。私たちはわざわざ天体観測をしなくても、潮の満ち引きのカレンダーをみなくても、波打ちのリズムをはらわたで共振させる。そしてうたい、描き、泣きわらうのだ。


内臓とこころ 三木成夫著 河出書房新社刊  読書の秋2022


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