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強くなるということ

 ねこっちです。今日は、強くなるとはどういうことか、それについて考えたことを書いていこうと思います。


「強くなる」ー子どものころのイメ―ジ

 子どものころは、毎日がとても楽しかったことを記憶しています。その時に「今日も楽しいな」と自覚していたというよりは、そのころはまだあらゆることを知らず、今思えばあの時は楽しかった、というような記憶の仕方をしています。

 そのような子ども時代、私にとって「強くなる」というのは、身長が大きくなり、遠くが見えるようになる、そういったイメージでした。今はまだ処理できない悩みなどを悩まなくなるような風に、強くなることを捉えていました。そのため、「強くなりたい」と思うことが多かったように思います。

 強くなれば、大人のひとがいなければできないことも、自分でできるようになる。強くなれば、感情をコントロールできるようになる。そのような「強くなった自分」を夢見ていたのでした。


「強くなる」ー中高生のころのイメージ

 しかし中学生になり、怒られたり、クラスメイトに避けられたり、陰湿ないじめの標的になったりし、私は精神不安定になっていきました。中2のころから、双極性障害のように安定と不安定を繰り返すようになり、月に1度はパニック発作や自傷行為をしてしまっていた私は、小学生のころのような楽しさの中にいた生活を思い出せなくなっていきました。

 そのような中、私が学校の環境に適応できないでいると、多くの大人たちに「強くなりなさい」と言われるようになりました。私が正直に「学校が嫌だ」「先生が怖い」というと、父は私を一喝したのでした。そのとき、私は

 強くなるというのは、無理やり成長させられ、正直なことを言えなくなることなのだな

 と思ったのでした。

 このイメージは高校生になっても引きずり、浪人生のころもずっとそう思っていました。そのうちに年齢も大きくなり、年相応の強さ(例えば、親からの精神的な自立など)を持てずにいると、私は主治医からも「自立したほうがいい」と言われ、強くなることをますます嫌いになっていきました。強くなると、正直なことも言えなくなり、大好きな両親の元からも離れなくてはならなくなってしまう__。「強くなる」など、ろくなもんじゃない、とよく思っていました。また、私のように強くなれなかった人が、精神疾患を発症してしまうなどして社会から(精神的にも)孤立してしまうと考えてしまい、強くなることを暗黙に強いているこの社会が人をダメにしているのだとよく考えていました。


不思議なこと

 強くなると人はダメになる、強くなりたくない、と思っていた私でしたが、不思議なことにこの社会では、強くなることは美徳とされています。

 強くなることは、数々の歌の歌詞にも描かれていたり、ゲームソフトや映画のテーマにもなっていたりします。私はそうしたものを見るたびに、なぜなんだ、と腹を立てていました。

 強くなると、正直に思ったことを言えなくなるのに、なぜ強くなるのが良いことなのだ。

 強くなると、母や父の元を巣立っていかなければいけなくなってしまうのに、なぜ強くなることがそんなに好まれているのだ。

 強くなると、常に背伸びをして自分に嘘をつくようになってしまうのに、なぜこの社会は強くなることを暗黙に強いているのだ。


 怒りの感情を伴うような疑問符が、頭の中に大量にありました。


「強くなる」ー新しいイメージ

 そのイメージは、実はつい最近まで持っていました。しかし、最近の私はその疑問を追求せず、自分は強くなれなくても生きていける、と思ってそれには取り合わずに生活していました。

 しかし、この「中高生のころからの【強くなる】に対するイメージ」は、思わぬことから崩れていきました。

 それは次のように考えたことから始まったのでした:

 強くなるということを人は好むようであるが、実際に強くなることは良いことなのであって、私の持っていたイメージのほうが間違っていたのではないか?

 こう考えた時、私は次のように自分のイメージを疑ってみました。

「強くなる」というのは、中高生のころのイメージでは「正直に言えず、常に無理をして自分に嘘をつく」というものであったが、それはそもそも強くなったとは言えないのではないか?

自分のイメージを疑った時の考え

 つまり、私が「強くなる」という言葉から抱いていたイメージ

・正直なことが言えない
・無理をしている
・本当は離れたくないのに我慢して親元を離れる

は、そもそも強くなっていないことを表しているのではないか?と自分を疑ってみたのです。

 強くなるというのは、そのような小さい背丈の自分が無理して背伸びをして標準並みになるのではなく、本当に背丈が大きくなってそれらが自然にできる状態を表している言葉なのではないか、と思ったのです。

 無理をして行うのではなく、自然に、自分の心が穏やかなまま、それまではできなかったことができるようになるから、それを本当に「強くなる」というのではないか、そう思ったのでした。

 そういう視点に立てた時、私のそれまでの「強くなる」というイメージは崩れていったのでした。

最後に

 この「強くなる」に関する新しいイメージは、偶然か必然か、小学生のころに抱いていた「身長が大きくなり、遠くが見えるようになる」というイメージに近いものでした。子どものころは楽しい毎日だった、と冒頭で述べましたが、そのころの自分は非常に自然体(=ありのままの自分)で過ごせていたと記憶しています。そのころの自分のような考えに、また一つ近づいたことは、私にとってとてもうれしいことでした。

 「強くなる」という言葉に含意された本当の意味は、まだ知ったわけではありませんが、少なくとも中高生のころに抱いたイメージよりは、本当の意味に近づいたのだと思います。その意味で、私はもしかすると以前より強くなったのかもしれません。

 今後は、自分が自然体のまま、今はまだ乗り越えられないことを乗り越えられるようになれることを夢見ながら、すなわち強くなった自分に思いを馳せつつ、この記事を閉じようと思います。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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