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映画「すばらしき世界」を鑑賞してきた

西川美和監督映画『すばらしき世界』を観てきた。
それは、すばらしかった。

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私は映画を観に行くとき、映画の前情報をほとんど入れずに行く。知っていたら理解が深まることもあるかもしれないが、ひとまず、気になったら、なるべくそこからは何も情報を入れずに観に行く。そしてこの感想も、観賞後、監督インタビューや製作秘話や他の人のレビューなどをまだ読む前に書いています。なので何か勘違いしていることもあるかもしれないけれど、あくまで自分が感じたことだけを純粋に書き記したく、そうしています。
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「すばらしき世界」だなんてタイトルで、誰にとってのどんな“すばらしき”世界を描いているのだろうか、というのは観る前から気になっていた。

主人公の三上は、暴力団と関わりがあり、殺人を犯し、13年の刑期を終えて出所した。刑務所から出てきた男性の生きづらさを描いているという前情報は小耳に挟んでいたのだが、観てみたら、違った。彼の生きづらさは、前科者だからという理由だけではない。彼の性格だ。真っ直ぐで、気が短く、正義感が強い。そう、”正義”感なのだ。
しかし、そこが良かった。「前科者だから」という社会的なメッセージではないのが、かえって物語を信頼できた。前科者だから、彼を貶めようとか、前科者だから、仕事が見つからないと苦労するような描写、少なくともそこを強調するような描き方はされていなかった。彼の周りの人々は、それを知ってもなお、彼に手を差し伸べた。周囲の人が彼に心配して忠告するのは、彼のカッとしやすい性格のことだけだ。
そして、それは、誰にでもありうること。人よりちょっと、気が短いとか、人よりちょっと、気が弱いとか。人と比べて「普通」なことなんて、たぶん誰だってないんだ。だから、倫理によって一律のルールがひかれた「社会」で、大なり小なり、生きづらさを感じている。
映画を観て、自分だったら三上にどう接してあげられるだろうか?と三上の周囲の人間の目線で観る人も多いかもしれない。でも、自分も三上になりうるんだ、と気づく人も多いと思う。

さらに劇中の会話の中で「普通になる」という言い回しがあった。ジェンダーや価値観、様々なことで「普通ではない」ことを認め許容していこうという風潮の現代で、排他されかけている「普通」という言葉が、西川監督に引っかからないはずがない。でもあえてこの言葉を使ったことの意味を考えている。まだ明確な答えは出ない。

私は映画を観ながら、父親を思い出していた。私の父も、真っ直ぐで、気が短く、正義感が強い人だった。奇しくも三上とは正反対の、公務員という仕事をしていた。しかし父にとっても、この世界は生きづらかったようだ。

『すばらしき世界』というタイトルに込めた想い。
観終えた今、私個人としては、三上にとっての「すばらしき世界」であってほしいと切に願っている。きっと最後には、三上はこの世界はすばらしいと思えていたんじゃないかと信じている。
さらには、西川監督はこの映画を撮ることで、誰しもが「すばらしき世界」だと思えるような世界になってほしいという願いも込めているのではないかと思う。そして、この映画を観た私もやはり、多くの人がこの映画を観て、感じ取って、世界がすばらしきものになっていったらいいと思った。
一本の映画が、社会にどれだけの影響を与えられるかわからない。でも、もしかしたら。映画で世界が変わるかもしれない。理想論だとわかっていても、そう願わずにいられない。


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