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読書感想文 : 「猫を棄てる」を読んで。目の前、または140文字の先にいる人のルーツを想うこと。

村上春樹さんの新刊「猫を棄てる 父親について語るとき」を読んだ。

初めて「ノルウェイの森」を新宿の本屋で手にしたあの日から、私は、村上春樹の本の魅力に取り憑かれてきた一人だ。

久しぶりの村上さんの新作、しかも村上さんの個人的なルーツを知ることになるこの本を手に取ったとき、久しぶりにワクワクした。

猫を棄てる、の題名になった物語

ある夏の午後、少年だった村上さんと村上さんのお父さんは、地元の浜へ猫を棄てに行った。棄ててから2キロも自転車を漕いで戻ったというのに、家に帰ると「にゃあ」と棄てたはずの猫が玄関で出迎えていた。先回りして家に帰っていたのだ。お父さんも村上さんもびっくり仰天。それからその猫は、村上一家に飼われることになった、というエピソードである。めでたしめでたし。

村上さんが冒頭に、このエピソードをこのように表現している。

僕と父の間には-おそらく世の中のたいていの親子関係がそうであるようにー楽しいこともあれば、それほど愉快でないこともあった。でも今でも、一番ありありと僕の脳裏に蘇ってくるのは、なぜかそのどちらでもない、とても平凡な日常のありふれた光景だ。

猫を棄てるという行為が、ありふれた行為であるかどうかは疑問が残るところだけれど。

村上さんが「ありふれた光景」と表現したエピソードが、実は村上さんのお父さんの背景を知る一つの重要な手がかりであったことが、本を読み進めて行くとわかる。

父は小さい頃、奈良のどこかのお寺に小僧として出されたらしい。おそらくはそこの養子になる含みを持って。(中略)浜に棄ててきたはずの猫が僕らより先に帰宅していたのを目にして、父の呆然とした顔がやがて感心した顔になり、そしてほっとしたような顔になった時の様子を、ふと思い出してしまう。

村上さんのお父さんは結果的にはその、奈良のどこかのお寺の養子にはならず、最終的には甲陽学院という(関西ではよく知られた進学校の)国語教師となった。

ただ、その時に「一度、親から棄てられた」という傷は、心のどこかにあったのであろうと、村上さんは推察している。ちなみに、この「奈良のどこかのお寺に小僧として出された」問題は、お父さんが村上さんに直接話したわけではなく、後になって村上さんが人づてに聞いた話である。

「猫を棄てた日」の平凡な日常の、ありふれたはずの光景が、途端に意味を帯びてくる。

家族や親子とは不思議なものだ。知られたくない、言いたくない、と思っていても、日常の端々に、生活の隅々に、嫌という程、自身の痕跡が透けて見えてしまう。

このエピソード以外にもお父さんのルーツを想起させるエピソードがもう一つあるので、是非読んで見て欲しい。

個人的には、猫がタイムワープしたかのように家に戻ってきてしまったことは、「1Q84」に出てくる「二つの月」という描写の、パラレルワールドを想起させる。ほんのりと。

村上さんのお父さんと村上さんの関係性

やはりというか、こういった本が出版された時点で皆さんも薄々予想していたことだと思うけれど、村上さんはお父さんと関係が良くなかった。何がきっかけであるが、決定的なことははっきりと描かれてはいない。

おそらく、生きたい人生の方向性の違いが大きかったのだろうと思う。分度器の角度のように、ちょっとした角度の違いが、それがたった1度でもー初めは誤差のようなものなのにー距離が伸びれば伸びるほど違いは大きく開いていくように。

ただ、本にはお父さんの晩年に和解のようなことを行えたとあった。

父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだった。(中略)そこで父と僕はー彼の人生の最後の、ほんの短い期間ではあったけれどーぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった。考え方や、世界の見方は違っても、僕らの間を繋ぐ縁のようなものが、一つの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった。

そして村上さんはお父さんの死後、お父さんを知るために、血縁の色々な人に話を聞き、またその時代背景を徹底的に調べている。それは、村上さんのお父さんの生きた時代ー主に戦争中のことーの詳細な描写に現れている。

昭和後期の生まれの私が、失礼で不勉強なことを承知で言うが、パターン攻略作戦もレイテ島の話も全く知らなかった。インパール作戦くらいは勉強した気がするけれど、それもはっきりと思い出せない。これを機に少し過去の戦争について、勉強しようと思ったくらいだ。

言葉一つ一つにも、割いている文章のボリュームからも、村上さんの熱意が伝わってくる。それについて私が何か感想を述べるのはおこがましいくらいに。

目の前にいる人、または140文字の先にいる人のことを想うこと

最初、村上さんは、すれ違ってしまったお父さんが実のところどういう人であったのか知るために、お父さんの背景を徹底的に調べたのだと思う。

こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら(中略)僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。

最終的には、村上さんは、お父さんのことを知れば知るほど、自分の存在というものを意識せずにはおれなかったのかも知れない。

お父さんがビルマで死んでいたら、もしくは奈良のどこかのお寺に養子に出されていたら、自分は、 と。

どんなに嫌っていた親でも、この存在があって今の自分がいる、という現実。自分という存在の心もとなさを、村上さんは「透明」という言葉で表現している。わかりやすい、しっくりとくる言葉だと思う。

話はガラリと変わるけれど、私は「すれ違ってきた人」に対して、村上さんのとった手法がすごく好きだ。

相手のことを知ろうとすること。知らなければ、その人を思いやることもできないし、その人が強がりで発した言葉の裏の意味を知ることもできない。

家族や友人など身近で身体的に接触ができる人だけでなく、今はインターネットで人と人とが手軽に繋がれる時代になった。それだけ人が接触できるようになれば、当然、軋轢も出てくるのは自然なことのように思える。考え方の違い、背景の違い。

村上さんがお父さんへとった手法と同じような「相手のことを知る」ことは、私は人間関係を営む上で、非常に重要なことではないかと思うし、最近心がけていることの一つだ。

twitterの140文字で全てを語れるほど人間はシンプルではないし、目の前の怒り狂う老人にだってその人の帰りを待つ家族がいるかも知れない。(だからってむちゃくちゃなあおり運転をしてくるやつの人生を色々と想像している間に、きっと車をぶつけられてしまうだろうから、ケースバイケースなのだけれど)

村上さんはもう一つの猫のエピソードに触れて(その話はここでは割愛するけれど、木に登った猫が降りられなくなっちゃっていなくなっちゃった話)こう言っている。

それが僕の子供時代の、猫にまつわるもう一つの印象的な思い出だ。そしてそれはまだ幼い僕にひとつの生々しい教訓を残してくれた。(中略)結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。

この一節で唐突に思い出したのは、村上さんの作品「アンダーグラウンド」というノンフィクション文学である。これは地下鉄サリン事件の取材を基に描かれたもので、被害者の方の背景を丹念に描いている。

被害にあい人生をめちゃくちゃにされた名も無き人たちが、その事件の朝までにどんな人生を送ってきたのかが、丁寧に描かれている。

戦争もそうだし、地下鉄サリン事件もそうだ。結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。

現代、というか今起こっている私たちの身に置き換えるとするなら、なんだろう。いっぱいあると思うけれど。

私は、いつでも、一方的に相手を殴ろうとしてはいけない、と村上さんの言葉を辿りながら、ひしひしと感じている。誰だって、想像力を欠いたら、それをするかもしれない、そんな可能性のある世界に生きている。

おまけ:土井善晴さんの言葉を頼りに

この小説を読んで、note上で文藝春秋さんがこういうキャンペーンをしていることを知り、感想を書くかどうか、大いに悩んだ。自分の文章力の稚拙さはわかっていたし、憧れの作家に対して自分なぞが感想を書くなど、おこがましいと感じていた。

でも、やはり最後の引用文「結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく」の一文で書こうと決めた。これからの自分自身の戒めのために。誰かを殴らないために。

その、感想を書こうかうじうじしている時に、料理研究家の土井善晴さんがラジオでこんなことを言っていた。

(料理が苦手な主婦の相談に対して)
料理っていうのはね、素材が大事なんですよ。だからね、料理っていうか、味付けするとかそういうことはね、7割でいいんですよ。素材の味を生かす、というか。料理人も主婦もね、3割残しておける人っていうのがね、上手な人っていうか。もっというとね、味なんかつけなくたってね、旬のものは美味しいんですよ。だから旬のものを新鮮なうちに食べるっていうのがね、大事なんです。

もし違っていたら目も当てられないのだが、だいたいこんなようなことを仰られていたと思う。

料理と小説は違うし、趣旨も違うのだが、7割でいいんだ。と何故か土井先生に背中を押された気がしたのである。村上春樹さんの書物はどれも素晴らしいのだから、それを誰がどんな感想をもってしても、10割理解することなんか到底できないだろう。

上記の私の感想だって春樹さんからしたら、とんちんかんちんかも知れない。3割にも届いていないのかも知れない。3割だったら、バッターだったら優秀な方だ。ちなみに昨年のヤクルトの青木選手の年間打率は2割9分7厘だ。勝った。

それでいいのだ。村上春樹さんの書物は、味なんかつけなくったてね、どれも美味しんだから。

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