器と一枝の猫柳

ふと、好いた人のある発言を思い出した。

「気づいたんなら、自分でやったらいいじゃない」

この言葉は自分に大きな衝撃を与え、今の自分の姿勢に大きく関わっている。


言われた場所は、その人が主人をしている宿屋の軒先。

大きな壺型の器に猫柳が数本飾られていた。

そのうち一本が、ひょっこり器から飛び出ていたのを見たのがやりとりのきっかけだ。

ぴょんと飛び出した一本が妙に気になった。

何故か気になるけど、これは意図したものかもしれない。

意図したものでなくても、気がついたことに何か言ってもらえるかもしれない。

よし、気になったことは正解を聞こう。

ここの場所の主人の発言なら、正解なはずだ。 

そんな下心を携えて、

「この猫柳、なんだかぴょんっと一本飛び出てますね」

と伝えてみた。

今思えばなんとも間が抜けた問いかけである。

けれどとにかく話しかけたかったし、相手に正解を求めていた。

しかし、その下心や甘えは見事に打ち砕かれることになる。

そうしてやりとりは冒頭の言葉に繋がった。


(気がついたなら、自分でどうにかしてみたらいい)


ぐっとなった。

伝えたのに?気がついたのに?

不快にさせただろうか。

詰まらないと思われただろうか。

とぐるぐるした。

が、その後ふと気がついた。

伝えてやった、とか気付いてあげたとか、それはその発言の向こうに勝手に何かを期待していた。

それは憧れの人に、そこに気がつくのね、と承認してもらいたかった気持ちやもしれない。

でもその人は、しっかり自分のしたいことをしている。

だからこそ好きだったのである。

何かに強く惹かれるときは、その対象と共通するものを己の心の中に持っている。

そんな言葉が脳裏をよぎり、

もしかすると、と思い猫柳と向き合った。


なんで気になったんだろう。

ぴょんと飛び出ている一本の猫柳を気になったのは、何故だったんだろうと軒先で向き合った。


集団から飛び出して、溢れそうになっているからかもしれない。

それを収めた方がいいと思ったのかもしれない。

でも、わからない。けど、気になった。から、誰かの中に正解を求めたんだなと、軒先で向き合ってた。

でも、これはきっと気になったものを通して自分と出会う機会だ。

よし、と思い立ってこぼれ落ちそうな猫柳に触れた。

飛び出したものを押し込めるのではなく、
方向を少しだけ他の猫柳たちに沿わせた。

飛び出した長さはあまり変わらないけど、他の猫柳たちと向いてる方向が少しだけ近づいた。

これだ、と思った頃、後ろから宿屋の主人の声が聞こえた。

「なるほどね」

私はそれを聞いてふふ、と笑った。

ご主人も笑ってた。

「お茶にしよっか」

そう言われて軒先を離れる。

上から猫柳を再度見た時、

最初に感じた違和感は跡形もなく消え失せていた。

そして胸の内を満足感と安心感が占めていた。

その後、その想いと共に歓談とお茶を味わったのである。


この体験は大きなきっかけになった。

自分はそれから誰かが私の中に承認のために正解を求めてきても、

「自分ではどう思う?」

と促す様に務めている。


気がつくことの中にその人の才がある。

その才と向き合うことはその人自身。

遅かれ早かれ、その人自身なのだと思っている。


自分の気付きは回り道をしても自分が向き合う。

そんなことの積み重ねの上で、生きている。

そんな自分の話。


ちなみに、猫柳の花言葉はこちら

この文を書いているときに知って、笑った。

猫柳を軒に飾っていたご主人も、


それを気にかけた自分も、

結局は同じような方向を見ていたのである。


『器とひとえだの猫柳』






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