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やらずの後悔

読売新聞の「小町拝見」欄で、タレントの光浦靖子さんのコラムを読んだ。
三十代の頃、「いい歳してみっともない」と思われるのが怖くて恋愛に踏み込めなかったが、四十代になったときに「三十代なんて“いい歳”ではなかった」と気づいた。そして五十代のいま、「四十代も“いい歳”なんかではなかったんだ」とまた後悔している、という内容だ。

やりたいことがあっても周囲の反応が気になって尻込みしてしまう、というのは誰にもあることだ。とくに恋愛事では「イタイ人」と思われるのを恐れるあまり、一歩を踏み出せないことがある。
誰かを好きになったらじっとしていられないタイプの私は、自信がないだの時期尚早だのと言って見ているだけの友人がもどかしかった。
「うんと美人なら待ってればあちらから来てくれるけど、私たちみたいなふつうの女が同じことしてたらダメなの。幸せになりたかったら、自分から相手の目に留まりにいかないと!」
と発破をかけたものだ。

恋愛事にかぎらず、私はなにかをやるかやらないか迷ったら、たいてい「やる」ほうを選んできた。やっての後悔よりやらずの後悔のほうが大きいと感じているからだ。
人生においてそこそこ大きな決断をするときは当然慎重になる。でもだからといって、「やらないほうがいい理由」を探したりはしない。
ましてや、年齢を理由にあきらめたことはない。

私は人よりずいぶん遅れて看護師になった。ひとり目の出産時、産科病棟が空いておらず小児科病棟に一泊したのだが、そこで働く人たちを見て「世の中にはこんな仕事があったのか」とショックを受けた。そして、後半の人生でやりたいことを見つけたと思った。
翌年ふたり目を生み、受験勉強を始めた私に何人もが言った。
「なにもいまさら……」
私がすでに三十代後半だったからである。
でも、私は「どこが“いまさら”なんだろう」と不思議に思った。まだ二十年、二十五年働けるというのに。いまさらどころか、この先産休も育休も取らずに定年まで働きつづけられるんだから、むしろグッドタイミングじゃないか。

が、そう思うのは私だけらしく、
「看護学生ってバイトもできないくらいハードらしいよ。体力とか記憶力とか大丈夫なの」
「学校で十八や十九の子とやっていけるの」
「資格を取っても、その歳で雇ってくれる病院はあるの」
とさんざん心配された。
当の私は勉強や実習についていけるか、クラスになじめるか、なんて考えもしなかった。それどころか、トップの成績をとって就職活動の際のハンデをカバーしようと思っていたくらいだ。仕事では世代や立場の違う人とずっと一緒にやってきたんだから、学校でも若い友だちができるわ、とも。
で、入学してみたらやっぱり私が最年長の学生だったが、なんの問題もなかった。尊敬できる先生に出会い、ひとまわり年下の親友ができ、第一志望の病院から内定をもらった。これまでの人生でもっとも勉強した、充実の三年間だった。


結局、私はやらなかったことに後悔しています。やらなかった後悔はいつまでたっても諦めがつかないからタチが悪いです。

読売新聞(2022年10月13日) 光浦靖子 「『いい歳して』と怖がらず」

成功であれ失敗であれ、「結果」があれば心に区切りをつけられる。が、決断や行動のないところにそれはなく、「もしあのとき……していたら」という思いを抱えたままになる。
私は「たられば」で生きていくのはいやだ。

自分の人生に必要なチャレンジなら、物怖じしている場合じゃない。誰になんと思われようと、やる。
それに、たぶんこちらが思うほど人は他人のことを気にしていない。「いい歳して」と一番声高に言っているのは、実は自分自身なんじゃないだろうか。


【あとがき】
患者さんから「若いからなんだってできるよ」とよく言われます。七十代、八十代の人から見たら、娘くらいの年齢の私はまだまだ「これからの人」なんですね。そうだよなあと思います。
昨夏から光浦さんはカナダに留学中。恋愛については後悔しているみたいですが、ずっとコンプレックスだった英語を話せるようになるために五十歳で留学を実行に移すとは。すごいなあ!