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ペットの幸せってなんだろう。

同僚のスマホの待ち受け画像は家で飼っているトイプードルだ。
ペットショップのショーケースに、でかでかと「SALE!」と書かれた紙が貼られている犬がいた。ほかの子よりひと回り体が大きい。元の値段の半分にまでなっているのを見て、彼女は「これでも買い手がつかなかったらどうなるんだろう」ととても気になり、セール最終日にもう一度店に行ってみた。「売約済」の札がついていることを願いながら……。
それから八年。その犬は「あんたの留守中、誰が面倒をみるの」と渋っていた彼女の母親に溺愛されているらしい。
林真理子さんのエッセイでも似たような話を読んだことがある。
生後八か月になっても売れ残っているゴールデンレトリバーが不憫でならず、自分の家では飼えないのにお金を置いて帰った。知り合いに「犬は好きですか、家は広いですか」と訊いて回り、いまその犬は老舗旅館のアイドル犬となって、みんなにかわいがられているという内容だ。

私は野良犬や野良猫の保護活動をしている人のブログをよく見るのだけれど、「動物の運命はどんな人間と出会うかで決まる」とつくづく思う。
外で生きていくのは過酷であるが、人に飼われたからといって平穏に暮らせるとはかぎらない。生存権、人で言うところの「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されないことすらあるのだ。
先日は、多頭飼育崩壊の現場からレスキューされた猫たちの“その後”の報告にぐっときた。預かりボランティアの家で十分な量の食事、清潔なトイレと寝床を与えられて生活するうちにおもちゃに興味を示したり、人に甘えるしぐさが見られたりするようになったという。痩せてカマキリのように三角形だった顔がふっくらし、目に力が宿っている。
住人が退去したアパートの部屋に置き去りにされていた猫のことも気にかかっていたのだが、そちらはひと足先に里親希望者が現れ、「かわいい、かわいい」と言われて暮らしているそうだ。

こんなふうに、最初の飼い主にひどい仕打ちをされても心ある人に救われ、幸せな“犬生”や“猫生”を送れるようになる場合もある。でも、それは運のよかったごく一部の犬や猫だけだろう。
うちのくり坊もそのうちの一匹である。保護主さんによると、淡路の漁港にある日突然、きょうだいらしき猫と現れたのだという。
「魚を食べて生きられると思うのか、猫を捨てに来る人が多いんです」
こんなところにいたら釣り針を踏んだり海に投げ込まれたりするかもしれないと捕獲器でつかまえたが、子猫なのに攻撃性が強く、とても人馴れしそうになかった。そのため、去勢手術をしたら安全な場所で地域猫にと考えていたのであるが、リリース当日の朝、なにか感じるものがあって「ダメもとで家猫修行をしてみよう」と思い直した。そうしてうちにやってきたときには警戒心のかけらもない、スリスリゴロゴロの甘えん坊になっていた。
飼い猫の平均寿命は十五年、かたや野良猫は数年と言われる。もし保護されていなかったら、リリースされていたら、いまごろ生きていたかどうか。
ケージの外から孫の手でなでるところから始め、世話をするときは革手袋をはめたそうだ。そこまでして「なんとか家猫にしてあげたい」と思ってくれる人に出会えたから、くり坊のいまがある。


癒やしを目的にペットを飼う人がいても否定はしない。でも、「抱っこしたい」「散歩に連れて行きたい」という動機でウサギや犬を飼った自分の子どもの頃を思い出す。
いま思えば、当時の「かわいがる」は自分の欲求を満たすための自己本位なものだった。

うちにはくり坊のほかにもう一匹、野良猫出身の子がいる。皮膚病にかかって無残な姿になっているのをつかまえ、治療のためにうちの子になってもらったのだが、三年経っても怖がりで、眠っているときにそっとなでることしかできない。
「そんなの家の中で野良猫飼ってるのと変わらないじゃない。触らせてもくれなかったらつまらないね」
と言う人もいる。むかしだったら私も、膝に載ってきたり一緒に寝たりしてくれないことを残念に思ったかもしれない。
でもいまは、くり坊と追いかけっこをしたりおなかを出して眠ったりしている姿を見られるだけで十分だ。
二匹の猫に望むのは、「元気で仲良くね」と「ずっとここにいてね」だけ。猫らしく気ままに暮らしてくれればいい。

家の中で人と暮らす以上、コントロールせざるを得ないことはある。でも、可能なかぎり彼らから習性を取り上げることなく自然な姿でいられるようにしてやりたいと思っている。
動物が幸せというものを感じるとしたら、それが叶えられているときなんじゃないだろうか。


【あとがき】
小学生の頃、セキセイインコを飼うのが流行っていたのですが、当時は当たり前のように羽切りが行われていました。窓からの脱走や室内で放鳥している時の事故(壁に激突したり鍋の中に落下したり)を防ぐ目的で、風切羽を切って自由に飛べなくするんですね。手乗りインコにするために切っていた人もいました。
あるとき、友だちが肩に載せて遊びに連れてきたのですが、「飛ぶ生き物が人の手で飛べなくされている」ことが怖く、悲しかったのを覚えています。