カバンの中の「そんなもの」
以前から不思議に思っていた。彼女とは夜勤入りのときにロッカールームでよく会うのだが、いつも「いったい何泊するの?」と訊きたくなるくらい大荷物なのだ。
その日も私のトートバッグの三倍はあるスポーツバッグをかついで病棟に上がろうとしていたので、思わず「すごい量だね……」と声をかけたら、「よく言われるの」と彼女。
そしてその中身を教えてくれたのだけれど、耳栓、アイマッサージャー、むくみを解消する足裏シート、ブランケット、スウェットの上下、ペットボトル加湿器……と休憩時間のためのアイテムがいっぱい。
「そんなものまで持ってきてるの!?」
「私、ちゃんと仮眠をとらないと朝までもたないから」
体力に自信のない彼女が短時間で疲労を回復し、リフレッシュするための工夫がこの荷物なんだそうだ。
眠くならないのをいいことに、いつも休憩時間にサマリーを作ったり委員会の仕事をしたりしている私。疲労はミスを招くから一時間は横になるようにしているが、仮眠の質なんて考えたことがなかったなあ。
どこへ行くにも荷物は少ないほうがいいと考えている人は多いと思うが、私も余計なものは持ち歩かないほう。けれども、私のカバンにも「なんでそんなものを?」と人から言われそうなものがいくつか入っている。
ひとつはこれ。さて、なんでしょう?
人工呼吸用のマウスピースだ。弁がついていて、血液や嘔吐物の逆流による感染を防げるようになっている。
「ハンズオンリーCPR(胸骨圧迫のみの心肺蘇生法)」という言葉が聞かれるようになってから、
「人工呼吸はしなくてよくなったんでしょ」
「人工呼吸を省略しても救命率は変わらないんだよね?」
と思っている人が増えたという。が、それは正しい理解ではない。
目の前で誰かが倒れても、トレーニングを受けていない一般の人は「人工呼吸なんてできない」と尻込みしてしまい、CPR(心肺蘇生法)を開始できないことがある。しかし、脳は数分の血流途絶で不可逆的な損傷を受け、五分で致命的となる。そこで、CPRに対する心理的ハードルを下げるため、「胸骨圧迫のみでいいのでお願いします」という考え方が生まれたのである。
でも、私は医療従事者。窒息や溺水、喘息発作などで呼吸ができなくなって心停止に至った場合は、倒れた時点で血液中の酸素を使い果たしている。その酸素の含まれていない血液を胸骨圧迫で巡らせても、脳を守ることはできないのだ。人工呼吸なしでは助けられないとわかっていながら、自分の身を守るマウスピースがないためにそれをためらうという事態は避けたい。
それで、プラスチック手袋とともに携帯している。
で、もうひとつはこれ。
先日車で走っていたら、道路脇に黄土色のものが落ちているのが見えた。
「道端で猫を見つけて近づいたらレジ袋だった」
というのは猫好きあるあるだが、私も日頃、「あ!猫!」と思ったら帽子だったりマフラーだったり……ということばかり。そのため、今回もきっと違うわと思おうとしたのであるが、嫌な予感が消えない。
戻ってみたら、横たわっていたのはテンだった。かわいそうに、車に轢かれたんだろう。抱えて植え込みに移動させ(プラスチック手袋はこういうときにも使う)、手を合わせた。
もしこれが犬や猫でまだ息があったら、迷わず病院に運んだだろう。
命の分かれ目があるのは人間だけじゃない。街中でけがをしたり弱ったりしている彼らを見つけたとき、保護して応急処置ができるようフードと自力で水を飲めないときのためのシリンジ、タオルと洗濯ネット(興奮している猫を洗濯ネットに入れると落ちつくことが多い)をカバンに入れている。
マウスピースもシリンジもいままで一度も使ったことはない。でも、これからも「必要最低限の荷物」のひとつ。
冷蔵庫を開けたら生活が、財布を開けたら性格が見えるが、カバンの中の「そんなもの」からはその人が大切にしていることがわかる。
【あとがき】
TikTokを見ていたら、犬や猫のレスキュー動画がよく流れてきます。がりがりに瘦せて干からびた状態で道端や草むらに横たわっていて、抱き上げてもぴくりともしない。でもタオルに包んで保温し、水を口に含ませ、病院で酸素投与や点滴をすると蘇生し、動画の終わりには自力で食べたり歩いたりできるようになった姿が映るんですね。
あの状態から息を吹き返すことがあるなら、そういう場面に居合わせたときに見た目で「ああ、これはだめだな……」なんて決めつけては(命をあきらめては)いけないのだなと思います。