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【短編小説】 月と金魚鉢

 中庭のある古民家の一軒家は、一人暮らしのあこちゃんには広すぎるように思われた。
 デザイン事務所に勤めている彼女の、特有のセンスでまとめられた室内は、京都の民泊のような、和洋折衷のオシャレ空間で、田舎だからと打ち明けられた破格の家賃に、その場にいた一同が驚いた。
 あこちゃんの個展の打ち上げを兼ねた家飲みに、友人と数人で立ち寄ったのは、もう霜が降りるくらいの晩秋の頃だった。
 帰るものと来るものが入れ替わりで多少の増減があったが、約八人ほどが、トルコ製キリムの上に置かれた、アラジンのだるまストーブの周りに、座布団で円座のように座って、木製トレイに並んだつまみを食べながらお酒を酌み交わしていた。
 あこちゃんの知り合いの、初めてお目にかかる客人も多いのに、連れ立った友人の芙美は、いつもながらの社交性を発揮して、いい感じに酔っ払い、見知らぬおじさんとすっかり意気投合している。
 土産のビールは、そのまま客席に投下されて、あっという間になくなった。
 下戸の私は、暖かいほうじ茶を、あこちゃんが自ら焼いたという、白地に部分的に深緑の織部釉がかかった、厚手の粉引きの湯呑みで頂いていた。
 個展の作品は、可愛らしいデザイン画だったけれど、シンプルでどっしりとした湯呑みはまた違った趣きで、多彩なのだなと感心したままを伝えて褒めた。
 あこちゃんははにかんで、小さな声でありがとうございますと言った。
 話の流れで、あこちゃんから、飾り棚にある、立体的な動物がいっぱい配された陶器製の飾り時計を作ったのが、芙美が意気投合している陶芸仲間のおじさんだと聞いて、歳の離れた交友関係に合点がいった。
 芙美が、黒い板張りの床に置かれている、ガラスの金魚鉢を指差して、
「あ、金魚がいる」
 と呟くと、
「いけない」
 そう言ってあこちゃんは立ち上がると、台所で汲んだバケツの水を土間の瓶に注ぎ入れた。
「バタバタしていて金魚鉢の水換え用の汲み置き忘れるとことだった」
 金魚鉢をみると、大きい赤い琉金が一匹優雅に泳いでいる。
 ヒーターや酸素の装置はない。
 世話の仕方を尋ねてみたら、
「一晩汲み置きをして、塩素を飛ばしているの。毎日半量の水を取り換えるだけで、餌やりの他に特別な世話はしていないけれど、もう五年くらいは生きているのですよ、可愛いでしょう?」
 と目を細めた。
 金魚の名は「月子さん」だと言う。
 中庭の空の月が、金魚鉢の水面に映り込むのを見るのが好きだと、あこちゃんは言った。
 その晩も綺麗な下弦の月が夜空に浮かんでいたが、いまいち金魚鉢との角度が合わずに、その様子を確認することは叶わなかった。
 犬や猫などと違って、月子さんは感情を汲み取ることが難しい。
 可愛いでしょう?の問いに、何と返事するべきか一瞬、躊躇ったが、月子さんが金魚鉢の中で、その赤い尾びれをひらひらとさせて泳ぐ様は、いつか映画でみた花魁道中の、高下駄の足運びのように妖艶で、語彙力低下を承知で、可愛いと表現出来なくもないかと思い、そうですね、と返答した。
 あこちゃんの中にも、花魁のような、気高き色気が潜んでいるのだろうかと、横顔を盗み見る。
 胸の膨らみはあまりないけれど、色白で赤くぽってりとした唇、僅かに垂れ目で、たぬきっぽい丸顔。ものすごい美人ではないけれど、モテそうだなと思う、愛嬌のある八重歯。
 何より私より5歳若い。
 若くて、可愛くて、才能のある彼女を羨ましく思う。
「私、来月、仕事辞めるんです」
「え?どうして?」
 唐突な告白に、何と反応すべきか戸惑う。
「疲れてしまって」
 月子さんには、癒しきれない疲れだったのだろうかと、金魚鉢の中を見つめる。
「若いから、大丈夫よ」
 あこちゃんは、金魚鉢を見つめたまま、
「友美さんが羨ましいです」
 と言った。
「ちゃんと好きなことを仕事に出来ていて羨ましいです」
 傍目には、そう見えるのかな。
 しがない広告ライターでしかない。自分の好きを形にした作品を生み出せるような、仕事なんかじゃない、と思うことも多いのに。
「あこちゃんだって」
 そう言うと、
「しがない広告デザイナーですよ。クライアントの意向で、デザインの意図がちっとも理解されていない、くだらない変更にも応じなくてはいけなくて、すり減るばかりです」
 ああ。
 彼女と私は、職種こそ違えど、似たような境遇にいるのだ。
 けれど、年齢の差が、選択肢の幅の広さと比例しているように思えてならない。
 私はカーディガンの身頃をかき合わせて、心に吹く隙間風を耐える。
「辞めた後はどうするか決めているの?」
「いえ、まだ何も」
 なんて自由なのだろう。
 私など、必死で今の仕事にしがみついているというのに。
「そう言えば、先日友美さんがレビューを書いていらっしゃったアイシャドウ買いましたよ。書かれていた通り発色いいですよね」
 急な話題の転換と、明るいトーンの声音に、あこちゃんだって先々のことは不安に思っているのだと、気付かされる。
 けれど、それこそ提灯記事を褒められて、複雑な気持ちを隠して世辞を言った、
「色白だから、寒色系も似合うわね」
「そうですか?イエベだと思っているので、似合わないかと思ってました。そう言ってもらえると嬉しいです」
 普通の女の子の会話らしいけれど、あこちゃんの視線が、金魚鉢にばかり向いているのが気になる。
「あこちゃんなら大丈夫よ。何処へいっても、大丈夫」
 あこちゃんは、私を見た。その眼が潤んでいる。
 円座から、あこちゃんを呼ぶ声がする。
「あこちゃん、コルク抜きある?」
 目元をそっと拭って、何でもないように返事を返す。
「え、ないよ?土産のワイン開けるの?それはいいけど、うちコルク抜きないなぁ」
 陶芸仲間のおじさんが、
「俺持ってるよ」
 と言い、スイスアーミーを取り出すと、一躍ヒーローとなっている。
 あこちゃんが、切なさの残る笑顔を見せてから円座に混じった後、視線を落としたら、月子さんが月を纏っていた。
「あ。綺麗」
 空を見上げると、さっきより真上に移動した月が、雲ひとつない夜空に浮かんでいる。
 切ないな。
 生きている実感は、どうにも切ない。
 芙美を手招きして、月を纏った月子さんを見せてあげる。
 芙美は、無邪気に喜んで写真を撮りまくってみたものの、水面に月の光が反射して上手に撮れないと大騒ぎしている。
「友美、ちっとも食べていないじゃない。あこちゃんの手料理、とても美味しいから、なくなっちゃうよ?」
 そう言って、円座に連れ戻してくれた。
「中庭っていいわねぇ」
「うん。いいよねぇ」
 中庭には、みかんの木が、植っている。
 ちょうど食べ頃に見えるみかんが、月夜に照らされて、艶々と輝いている。
「ねえ、あのみかんってもう食べ頃?」
 あこちゃんは、
「うん、先週食べたら少し酸っぱかったけど、昨日取ったのはだいぶ甘くなってたから、頃合いですよ。台所に捥いだのが幾つかあるけど食べますか?」
 そう言って、台所の果物籠を指差した。
「焼きみかんにして食べたい」
「いいね!あこちゃん、アルミホイル頂戴」
 懐かしいねと言いながら、ストーブに載せる。
 ほうじ茶のおかわりを注ぎながら、あこちゃんが、コソッと、
「今夜、泊まって行きませんか?」
 と言った。
 言われて、終電の時間も近いことに気付いた。
「彼女もかなり酔っているみたいだし、それよりも、なんか、みんな帰っちゃったら寂しくなりそうで。雑魚寝になっちゃうけど」
「いいの?ありがとう」
 私より先に芙美が礼を言って、
「じゃあもっと呑む!」
 とグラスを掲げて笑いをとった。
 ストーブの向こう側に座る、あこちゃんが勤めているデザイン事務所に出入りしている、カメラマンのメガネ君と目が合った。
 腕時計を見てから、あこちゃんを見る。
 芙美が横から、
「お泊まり会楽しみねー」
 と酔っ払いらしく大袈裟に身体を揺らした。
 焼きみかんが出来上がるまで酔い潰れずにいられるだろうか。
「あこちゃんの恋バナ楽しみー」
 トロンとした目で、メガネ君とあこちゃんを交互に見る。
 なるほど、どうやら同じ勘を働かせたらしい。
 中庭の近くに置かれている、金魚鉢に目をやって、月子さんはいつ眠るのだろうと思う。
 月子さんの見る夢は、黄金色に輝いているに違いない。
 いつかメガネ君に、月を纏った月子さんの写真を、上手に撮って欲しいと思う。
 あこちゃんの個展会場だったギャラリーで、写真展の受付をするあこちゃんが見られるかもしれない。
 そんな想像をしてふふふと笑ったら、
「なあに?気持ち悪い。なんか楽しいこと考えているでしょう?」
 と肘打ちされたので、唇に人差し指を立てた。
「あとでね」
 夜の窓辺は冷えるからと、金魚鉢は奥の和室に移された。
 私はもう一度窓辺に立って、湯呑みのほうじ茶に月を浮かべてみる。
 まばゆい黄金色の空を泳ぐ琉金の夢が見たいと念じて、ほうじ茶を啜っていると、それじゃあそろそろ、とメガネ君がいとまを告げる声が聞こえる。
 どうやら帰宅する方面が同じとのことで、すっかり酔っ払った、陶芸仲間のおじさまを最寄駅まで送り届ける命を負ったらしい。
 あこちゃんと、居残る予定の私達は、玄関に見送りに出た。
「今度、拓真くんも陶芸教室に体験コース受けに来てくれるって言うからさ」
「え、ほんとですか?男の生徒さん少ないのが寂しいって言ってたから、先生も喜ぶと思います」
 あのメガネ君は拓真くんと言うのだななどと思いながら、心の中で密かにおじさまにグッジョブと唱える。
「いえ、こちらこそ楽しみにしてます。ああ!陽介さん、逆です!靴、右左が逆ですよ」
「おお、そうか?こりゃどうも」
 おじさまは陽介さんと言うのか。
 かなり酔っているが、メガネ君が一緒なら大丈夫だろう。
「芙美ちゃんも、今度飲みに行こうな」
 芙美はすっかり気に入られているようだ。
「ええ、陽介さんおすすめのお蕎麦屋さん、是非連れて行ってくださいね。また飲みましょう」
 他の残っていた者も同じタイミングで帰って行った。みんなが笑顔で、あこちゃんの人柄が寄せる人達なのだなと思う。
 実はかなり人見知りの私ですら、あこちゃんは安心してお付き合いできる人だ。
 年下なのに、どこか頼っているような気持ちになる。
「さてと、片付け手伝おうか」
 宴の後を眺めて、腰に手を当てると、横から芙美がそれを制した。
「待って、その前にあこちゃんお鍋貸して」
「お鍋、ですか?」
「そう、これ熱燗で呑みたくて」
 そう言って、三分の一くらい残っている、地元の日本酒の一升瓶を掲げる。
「まだ飲むの?」
「まだ飲むんですか?」
 あこちゃんと私が素っ頓狂な声をあげると、芙美はケラケラと笑って、
「もちのろんよぉ。陽介さんが潰れてしまわないように、後半セーブしたんだから。せっかくのだるまストーブだもの、お銚子つけなきゃ勿体ないでしょう」
 あこちゃんは両手鍋に水を注ぎながら、
「おつまみ、乾き物くらいしかないけどいいですか?」
 と言って、戸棚に目を馳せる。
「酒の肴はとっておきがあるから、いいのいいの」
 水を張った鍋に、日本酒を注いだ片口を浸すと、焼みかんを端に避けて、鍋をストーブに置いた。
 食器を片付ける手を止めて、
「とっておき?」
 と尋ねると、芙美はニヤッとして、
「今夜は、あこちゃんの恋バナつまみに呑むに決まっているでしょう」
「ええ?提供できるような話題は何もないですよ?」
 慌てて手を振って否定するあこちゃんに、
「またまたぁ」
 と芙美がニヤける。
 なるほど、などと感心して、ああ今夜は寝られないやつだなと思う。
 黄金色の空を泳ぐ月子さんの夢はお預けだ。
 私は中庭に浮かぶ月を見上げて、今、独りでいる訳じゃないのに、急に寂しくなる。
 きっと、楽しかった酒宴の、四方山話を聞かせる拠なき相手がいないからだ。
「あたしの失恋話も聞いてもらわなきゃ」
 おぼんの上に皿を重ねながら、本音がポロリと溢れた。
「やっぱり。なんか元気ないと思ってたのよね」
 芙美が、眼を光らせると、
「ええ?どこの不届者ですか?」
 と、あこちゃんは眼を丸くした。
「あこちゃんの恋バナが先でしょう」
「だから、何もないですって」
 三人でクスクス笑いあって夜が更けていく。
「なんかお腹空いてきちゃった」
 あこちゃんは冷蔵庫を物色すると、何やら食材を取り出した。
 日付が変わろうとしているのに、罪深き締めのラーメンを作ると言う。
 洗い物を片付ける傍らで、ネギを刻むあこちゃんの鼻歌が、流れる水音に混じって、澄んだ高い声が細く聴こえる。
 ムーンリバーだ。
 ティファニーとはいかないが、明日の朝食は、台所を借りて、得意のフレンチトーストを振る舞おうなどと思う。
 ちゃんと起きられたら。
 深夜のラーメンで胃もたれしていなかったら。
 芙美が二日酔いで気持ち悪いと言わなければ。
 今にも挫折しそうな緩い目標。
 それでもいい。人生の切なさも嬉しみも、いつも全力で、いつも前向きで向き合えない時だってある。
 月の満ち欠けのように。
「金魚、飼いたいな」
 そう呟いたら、あこちゃんは鼻歌とネギを刻む手を止めて、目を輝かせると、
「可愛いですよ、金魚」
 と、少し前のめりに笑いかけてくれた。

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