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きょうだい児で、長男教家庭の女児で、新興宗教二世だった小さな私へ②

母の話に戻そう。

ちょうど私が小学生の頃、地下鉄サリン事件でオウム真理教が世間を震撼させた。
母の宗教は全く別物ではあったが、奉仕活動と称して近所を布教して回るため、同級生からは有名人だった。
もちろん子供の私に拒否権など無く、一緒に活動しないといけなかった。
某女性芸人がやる、あの有名なネタだ。
それだけでも、好奇心旺盛な小学生がネタにするには十分だった。
学校へ行けば、毎日オウムと囃し立てられた。

それでも幸い数少ないながらも友人はいたし、幼いながらに恋もした。
小学校2年生の頃だったか、クラスに好きな男の子ができた。
女の子とはませたもので、友人たちが母親と恋バナをしているのが羨ましくて、いつだったか母に好きな男の子のことを雑談程度に話したことがある。

それから1週間、毎日怒られたことしか覚えていない。
母の宗教は、男女交際は結婚が前提でなければならず、尚且つ信者同士でなければならなかった。
当然、結婚など程遠い小学生の恋心など許されたものではない。

その思い出がトラウマで、私は結婚まで家族に彼氏の話をしたことが無い。
結婚も、先に夫の両親に挨拶して、入籍の日取りも決めて、新居も全て決めてから、反対でもされたら親と絶縁するつもりで「この日に結婚するから」と言ったくらいだ。
既に30代、さすがに反対は無かった。

中学生になり、いくら無菌状態で育てられても世間の情報は何かしら入ってくる。
年相応に、オシャレに目覚めた。
私はお世辞にも可愛いともキレイとも言えない顔立ちの部類で、むしろ中学1年のときは「顔が気持ち悪い」を理由にいじめられていた。
拙いながらも、アラをカバーするためのメイクと、チリッチリの天然パーマをある程度マシに見せるスタイリングを覚えた。

子供というのは素直であり、単純であり、残酷なもので。
あっという間にいじめは無くなった。
その経験から私は、普通科の高校に行き、美容師かメイクアップアーティストの学校に行きたいと思った。
そこでまた邪魔をするのが、母の宗教だ。

若者は早くに布教活動に熱心であることが求められた。
そのため高校を卒業したら、布教活動を最優先にするために定職に付かない人が多く、高等教育は悪しきものとする風潮があった。

当然、認められなかった。
そもそもファッションや美容などの、いわゆる派手な仕事を目指すなど論外だった。
定職につかなくても食いっぱぐれのない資格が取れる、全く興味のない分野の高校に進まなくてはならなかった。

今思えば、ちゃんと中高生で反抗期を迎えていたら、また違った人生があったのかもしれない。

でも、兄と違ってちゃんとしなきゃいけない。
せめて母の期待に応えなければいけない。
そう刷り込まれてきた私には、親の顔色を翳らせてまで意思を貫く強さは無かった。

ここでまた兄の話に戻る。

3つ違いの兄は先述の通り、勉強が致命的に出来なかった。
学校からは「この学力でいける高校はありません」と言われ、両親はせめて高校まではと、個別指導の数十万する学習塾に入れた。
幸い兄は希望の学校がたまたま定員割れし、入学できた。
好きな分野の科に行き、その分野だけ開花し奇跡的に大学も行った。
選択肢の多い都内に住んでいたのに、わざわざ地方の私大に行った。
寮もあったが、集団生活をしたくない本人のわがままを聞いて親は仕送りでアパート暮らしをさせた。

さて、私は。
兄と異なり、希望に沿わないながらも目指す高校は決まった。
そこは進学校ではないものの、都内の公立では唯一の科で、倍率は異常だった。

同級生が皆塾に通う中で、さすがに不安を感じ、せめて月1万円の補習塾に通いたいと両親に懇願した。
答えは、NOだった。
兄の進学でお金がかかりすぎたから無理、兄と違って学校で勉強すればできるでしょう、塾での交友関係で悪影響が出たらいけないし。
そんな理由を並べられた。

そのくせ、受験期も家事の分担や、宗教活動の免除は無かった。
ストレスで髪は抜けた。
毎日吐きながら、高校は受かった。
160センチ超えなのに、30キロ台まで落ちた。

高校生活の3年間はほとんど記憶にない。
興味の無かった分野の勉強、その後も好きな進路に行けないと分かっている日々。
その中でも、母には愛されたくて、熱心な信者を演じ続けてきた。
表向きはにこやかで、でもその実は感情を殺した人形だった。

20歳の時、ある日突然起き上がれなくなった。
当時、私は「開拓者」と呼ばれる、その宗教の中では熱心で比較的上位とされる立場にいた。
毎月活動報告のようなものがあるのだが、体の自由が効かなくなり、その月は散々な数字の報告となった。
それを見た上層部の人が、「来月はもうちょっと頑張れたら良いですね」と言い、横で母が笑っていた。
その瞬間、20年の限界が訪れた。

父に愛されず、兄に虐げられ、それでも母に愛されるために、希望を全て捨てて従ってきた。

私にも、自由に生きる権利がある。
こんな他人に私の何を評価できるのか。

遅ればせながら、初めて反抗期を迎えた。
母とは1ヶ月間闘った。
私は、自由を勝ち得た。

学校は行っていないので、目指す職種では無かったが、希望の一つだったファッション業界に就職した。
実家を離れた。
安月給だったが、どんなに生活が苦しくても、仕事が辛くても幸せだった。

子供の頃に観られなかった、当時流行った番組のDVDを借りて全部観た。
音楽も沢山聴いた。
そうやって子供の頃に歩むべきだった道を全速力で駆け抜けて、やっと同年代の子と話を合わせられるようになった。

彼氏も出来たし、当たり前のように誕生日やクリスマスを祝えることが幸せだった。

実家を離れてみると、程よい距離感で親とも付き合えるようになった。
良い取引先くらいの関係性が楽だった。

しかし、結婚適齢期は訪れる。
結婚は当人の意思に基づくとはいえ、互いの両親に知らせないわけにはいかない。
自分の親に知らせるのも嫌だったが、それ以上に相手に自分の家族のことを知られるのが恐怖だった。
その繰り返しで、私は歳を重ねていった。

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