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美と秀雄と世阿弥

verdeさん主催の「大人相談会」。「美」というテーマについて7人で語り合った感想を書くつもりが、どうもそれだけでは済まない話になりそうです。お時間ある方はおつきあいください。

verdeさんが1年以上前に立ち上げた「大人相談会」。月に一度、6人前後の少人数がzoomに集まり、決まったテーマに沿ってあれこれ話をするというもの。私が参加するのは2回めです。
当初は「大人ならではの悩み」を相談し皆で分かち合う場だったようですが、いまでは「対話」が主流になっています。

『美』はあくまでも個人的な主観のもとにそれぞれが感じることであり、正解や不正解があるわけではない。

美しいと感じる心、それこそが生きている間に人間に与えられる贅沢な楽しみの一つなのではないだろうか。

第14回 大人相談会 / あなたにとって『美』とは?
verdeさん

verdeさんのおっしゃる通りで、「美しさ」はあくまで人間が何かに対して抱く感情ですよね。夜空に輝く月を美しいと思うのは、見た人の感性がそう働いたからに過ぎず、月そのものは単なる星です。
その星をふと見上げて「ああ、今夜の月はひときわ美しいなあ」と感じる心を持つ私たちは、豊かに生きるためのツールを1つ手にして、この世に生まれてきたと言えるかもしれません。


小林秀雄さんの著書にある有名な一節を、私はこのnoteの冒頭に据えるつもりでした。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

当麻たえま
小林秀雄

この言葉を私は先に書いたような意味で捉えていました。そもそも花に美しさはないのだと。しかしもしかしたらそういう意味合いではないのかもしれない。

気になった私は、どの作品に書かれたものかを調べました。『当麻たえま 』という短いエッセイの中にある一節だとわかり、全文ではないけれど前後を読むことができました。『当麻たえま』は能の演目であり、舞の美しさに魅了される自分自身やまわりの人を観察して得た想いを述べた作品のようです。

中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出した花の様に見えた。
(中略)
要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入り込む事は出来なかったのだ。世阿弥の「花」は秘められている、確かに。

当麻たえま
小林秀雄

”世阿弥の「花」は秘められている”というのは、室町時代に一世を風靡した能役者であった世阿弥が、役者の心構えを記した著書『風姿花伝』の中で次のように述べている箇所を指すのだろうと思います。

秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずば花なるべからずとなり、この分け目を知る事、肝要の花なり。

『風姿花伝』
世阿弥

<あからさまに全てを見せるのではなく、あえて内に秘めつつ演じるからこそ、見る人の目に「花」として映るんだよ。なにもかもさらけ出したら台無しだからね。「花」を生む境界を知らないといけないよ。世阿弥>

「花」とは「能の美」を指します。

小林秀雄は、能の舞に「花」を見た。「秘する花」。

世阿弥が『風姿花伝』を書いたのは室町時代です。

僕は、無要な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」。

当麻たえま
小林秀雄

「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」も世阿弥の著書にある言葉です。

<たくさんの演目を練習してその技を極め、さらに自ら工夫をし尽くしたならば、「花」(=能の美)は消えたりしないってこと。忘れないでね。by Zeami>

小林秀雄は『当麻たえま』の中で、お互いの表情を盗み見ながら腹の探り合いばかりする現代(1942年・第二次世界大戦中)に怒っています。
面をつけて舞う能役者の「秘めた花」の美しさに、半ば口を開けて見入る観客の間抜け面。自分もその一人であることへの嘆き。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。

当麻たえま
小林秀雄

「世阿弥が唱える花とは一体どういった観念を示しているのか、甚だ曖昧ではないかね君」などと議論を交わすのは実にくだらん。目の前にはただ美しい「花」があるのみ。「花」の美しさなんていう「観念」は存在しないのだよ、と秀雄。

原文をあまり引用し過ぎるのはよろしくないと思うのでここでやめますが、これに続いて小林秀雄は、観念なんかよりも身体を使ってものを考えよ、そのほうがよほど深淵であると喝破する。表情や表現のうわべだけを読み取って得意げに吹聴する人こそ、面をつけておけ。と世阿弥なら言うかもしれない。

なんて、最後はあざとく世阿弥に乗っかってますが、まあつまり、「能の美は一体何を指すのか」とわけ知り顔で言い立てる評論家のみなさんと、彼らの意見にしたり顔で頷く風潮を一蹴したのが『当麻たえま』ではないか。そのように私には思えました。
まあこれも、うわべだけを掬い取った浅い読み方なのかもしれないけどさ。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

当麻たえま
小林秀雄

ここに書かれた「花」とは、世阿弥が説く能の「秘めた花」を指す言葉でした。そして、技を極めた能役者にしか出せない「花」の正体を軽々しく云々する輩に、秀雄が怒っているのでした。

軽々しく引用しないでよかった。


それにしてもね。まさか私、自分のnoteで小林秀雄はもとより、世阿弥の文章を引用することになるなんて、ちっとも思ってなかったよ。
世阿弥はね、子ども時代に能(そのころは猿楽さるがく)で足利義満に見染められ、ずいぶん贔屓にされていた美少年だったのですよ。そのころの役者はかなり身分が低かったのに、義満が芸事を鑑賞する席で自分の隣に世阿弥を座らせ、酒をつがせたりなんぞしていたんです。お稚児さんを最初にはべらせた将軍こそ義満です。

なんでこんな話を知っているかと言うと、アニメ「一休さん」に出てくる殿は義満がモデルなんです(史実に沿えば、一休の子供時代に義満はもう出家していたんだけど)。
漫画「美坊主ヒトヤス」を描くにあたり、そのへんのことを調べる中で出てきたのが世阿弥でした。

だからびっくりしました。「大人相談会」に参加した感想を書くつもりが、小林秀雄を経由して「義満の稚児だった美少年世阿弥」について述べることになろうとは。
verdeさん、ごめんね。(でもたぶん、こういう話好きよね?)


『風姿花伝』が丁寧に現代語訳されているwebページを見つけました。ここに書かれている心得は、能だけでなくあらゆる創作にいまも通じる気がします。「興行として成功するにはどうすればいいか」がとてもわかりやすく書かれているマニュアル本。ぜひ読んでみてください。
(目次の中の「花伝第七 別紙口伝」をこのnoteでは参考にしました)


「大人相談会」の中で、私から参加者にこんな質問をしたんです。

「みなさんにとって美しい文章って何ですか?」

問われたときの6人の顔が、一斉に恥じらいの表情を浮かべたのは興味深かったなあ。まるで「片思いしてる人の好きなところは?」って訊かれたときみたいに照れちゃって。

ああ、みんな文章書くのが本当に好きなんだなあと微笑ましくなりました。

「大人相談会」で話す人はこどもの心を持っている。楽しい理由はそこかな。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。