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「母子」

久し振りに実家へ帰った。去年の盆以来だ。母と二人で夕餉ゆうげ をしたため、風呂に入って月を眺めた。

冷えた瓶ビールを飲みながら、私は母に尋ねた。
「ばあちゃんは?」
「寝てるよ」
「いつもの部屋?」
「ああ」
思わず溜め息が漏れた。母がつぎ足してくれたビールがやけに苦い。

「いつまで続けるんだよ」
なるべく穏やかに言ったつもりだが、母は困惑した表情を私に向けた。
「いつまでっておまえ」
「いい加減よしたらどうだい。ばあちゃんだって可哀想じゃないか」
「……」

ビール瓶を持ったまま俯く母を見て、私はまた溜め息をついた。母にもめ時がわからないのだろう。哀れなのは母のほうかもしれないと思うと、私にはそれ以上強く言うことができなかった。
ビールを煽って立ち上がり、「もう寝るよ」と声をかけた。母の「おやすみ」という声を背中に聞いて、私は後ろ手に襖を閉めた。


夜中にふと目が覚めた。私は床を出ると、厠へ向かって廊下を歩いた。障子の薄紙から弱い光が漏れている。祖母の部屋だ。私は足を止め、僅かな隙間から中を覗いた。

蝋燭の灯りの中に、母の顔が浮かんで見える。敷かれた布団に寝ているらしい黒い影は祖母だろう。
「あの子がねえ」
母の小さな声が聞こえた。
「もういい加減よしたらどうかって言うんですよ」

私は耳をそばだてた。堅いものを砕くような、パリ、パリ、という音が響いてくる。
「あたしだってそりゃあ、いつまでこんなことを続けていたって、意味のないことぐらいわかってますよ。でもだからって今すぐに止めるわけにもいかないじゃない。ねえ」

祖母は何も答えない。パリ、パリという堅い音はまだ続いている。

「お母さん、今日は顔色がいいようね。あらいやだ、あたしの指まで食べないでくださいよ」
母が少女のような笑い声を立てた。堅い音が止んだ。
「いいお醤油が手に入ったのよ。明日はそれで焼いてあげる」
母が腰を上げる気配がしたので、私は急いでその場を離れた。


翌朝早々に、私は手荷物をまとめた。香ばしい匂いにつられて裏庭へまわると、七輪の前に母がしゃがんでいた。
「もう行くのかい」
母が残念そうに言った。
「午後から用があるんだ」
「そう。またいつでも帰っておいで」
私は曖昧に微笑むと、母に背を向けてしおり戸をくぐった。

今夜も母は、祖母にあの煎餅を食べさせるのだろう。布団から決して出られない祖母に、別れを告げる決心がまだ母にはつかないらしい。

もうすぐ祖母の七回忌を迎えるというのに。

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