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所有と気がかり/メタモルフォーゼに感化された話と談笑会のお知らせ

猫が目の前で毛繕いをしている。長い舌の上にはザラザラした突起が無数についており、首をねじった鼻先にある肩甲骨の下のあたりをその舌でひと舐めすると、細い櫛で梳いたように毛並みが美しく整う。

時々こんなことを考える。猫はすごいな。この体ひとつあれば、どこでも生きていけるのだからな。

人間は、髪を梳くにも櫛がいる。服を着ないで外は歩けない。お金を持っていなければ食料も買えないし、猫のようにどこかの家の庭先で眠るわけにもいかない。野宿して生きている人もいるにはいるが、やはり裸ではなし、地べたへ寝るにはダンボールを敷きたいところ。猫のように身ひとつでは、到底生きられない。

自分は甘やかされているなあと思う。衣食住はおろか、もはやスマホが手元にないだけで、コンビニでの買い物にも不便を感じるようになった。同じ下着を3日続けて履くことを想像すると気が滅入る。下着どころかトイレットペーパーすら猫には無用なのだ。体のほかに何もいらぬ。尊敬に値する。

ここまで書いてふと思ったのだけど、もしかすると我々は、持ち物の数に比例して悩みも増えているのではないかしら。悩みというのが大袈裟なら、気がかりと言い換えてもいいけれど。

たとえば猫を飼っていると、彼らの体調が常に気になる。いつも完食するエサを少し残しただけで、あらゆる心配事が頭の中をよぎる。どこか具合が悪いのではないか。以前かかったことのある胃炎がまたぶり返しているのか。歯肉炎か。何か変なものを飲み込んだのか。このまま様子を見るか。すぐ病院に連れて行ったほうがいいか。猫を飼っていなければ、このような心配はしないで済む。

同居人がいるよりはひとり暮らしのほうが気が楽だ。更に言えば、物で溢れかえっている部屋に住む人よりは、ミニマリストのほうが気がかりが少ないだろう。クローゼットにかかっている服がわずかなら着るものに迷わないし、スマホすら持たない場合、バッテリーの残量を気にする必要もない。

猫が呑気に見えるのは、所有するものが自分の体ひとつだから?

やはり尊敬に値する。今日もお高いオヤツを献上しよう。

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