短編小説「紫の龍」
授業が終わり、職員室に戻ったあともまだしばらく、わたしは考え込んでいた。
(よけいな言葉だったかな。あの子を傷つけてしまったかしら……。)
同じ後悔が何度も頭にせり上がってくる。わたしのあのひとことで、あの子が絵を嫌いになったらどうしよう。もう二度と絵は描かない。そんなふうにもし思われたら、わたしは何と言ってあの子を慰めたらいいのだろう。
「片岡先生」
名前を呼ばれてはっと顔を上げた。
隣の席の沢原先生が、わたしの目を見てにこっと笑った。
「それ、『龍の使い』の絵ですね」
わたしの手元を覗き込みながら、沢原先生が言った。
「上手に描けてる」
「はい」
「僕のクラスは先週やりました。コンクールに出すんですか?その絵」
わたしは返事に詰まった。
「それはまだ、何とも」
「選ぶの難しいですよね。僕も出したい絵が10枚もあって、なかなか1つに決められない。どれもうまいし、それぞれ味があるからなあ」
味がある。そう。わたしもあの子に味を出してほしかった。それであんなふうにアドバイスをしたのだけれど。
わたしは思いきって、手に持っていた画用紙を沢原先生の前にかかげた。
「先生はどう思われますか?この絵」
沢原先生は大きな目を一段と丸くして、絵をじっくりと眺めた。
「とてもいいと思います。龍がこちらに向かって飛び出してきそうな迫力がある。よっぽど絵が好きなんですねこの子」
と沢原先生が笑顔で言った。
その笑顔にわたしの胸がぎゅっと締めつけられた。動揺を振り払うように画用紙を素早く机に戻すと、黙って視線をその上へ落とした。
キーンコーン。
予鈴が鳴った。わたしたちは慌てて次の授業の準備をし、教材を手に職員室を出た。
絵のことは一旦忘れよう。今日の授業が終わってからまた考えよう。
そう決意したものの、窓際のいちばん後ろに座っているあの子の様子がどうしても気になった。
終礼のあと、あの子は笑顔でさようならの挨拶をしてくれたけれど、ランドセルの背中を見送ってからも、あの龍の絵がわたしの頭から離れなかった。
『龍の使い』という短い民話には、紫色の龍が登場する。
長い間雨が降らず、稲が育たないため飢える村人に、天から降りてきた巨大な龍が、雷を轟かせ恵みの雨を降らせるというお話。
教師が語り聞かせたあと、生徒がそれぞれ頭に浮かんだイメージを目の前の画用紙に描く。よく描けた絵はクラスの代表として、県の絵画コンクールに出されるという話を前もって知らせた。
生徒はみんな張りきって絵筆を手に取った。画用紙いっぱいに空を泳ぐ龍、田んぼに雨が降って喜ぶ村人の笑い顔。どの絵も楽しく伸びやかだった。
机の間を縫って歩いていたわたしの足が、窓際の最後尾で止まった。
あの子のいつもの上手な絵。ほかのみんなが苦心している龍の顔が、鼻の下から長く伸びるヒゲや、頭に突き出た丈夫な角まで見事に表現されていた。
「立派な龍だね」とわたしは言った。
振り仰いだあの子は少し得意げに笑った。
二巡したとき、その絵はもう完成していた。絵の具の入った箱のふたを閉めようとしていた小さな手を、わたしは制した。
「紫ってね、ただ一色じゃないのよ」
不思議そうに見上げた顔に、わたしは少し体を寄せた。
「この絵の具の中にもし紫色がなかったら、龍を何色で塗ればいいと思う?」
あの子は目を見開いたまま考えた。しばらく待ったが、すぐに答えは出ないようだった。
わたしは絵の具箱の中から、赤のチューブと青のチューブを取り出した。
「この2つの色をパレットで混ぜてごらん」
あの子は素直に従った。パレットに出来上がった色は、赤の濃い紫だった。そこへ青を足すと、今度は暗い紫になった。
「おもしろいでしょう」
わたしは声を弾ませた。
「赤と青の2色を使ったらいろんな紫ができるわよ。それで龍の鱗を塗ったら、この立派な顔がもっと生き生きするんじゃないかな?」
この発見をあの子はきっと喜ぶだろうと、わたしは期待してその顔を覗き込んだ。けれどもそこにあったのは、唇を引き締めた固い横顔だった。
「先生!」とそのとき、ほかの生徒がわたしを呼んだ。わたしは慌ててあの子の肩に手をかけた。
「もちろん絵はそのままでいいのよ。紫の龍、かっこいいわよ」
そう言い残し、あの子のそばを離れた。
授業が終わってしばらくの間、絵の具を乾かすために画用紙は、教室の後ろの小物を入れる棚の上に並べられた。
昼休みにわたしが回収した絵の中に、あの子の龍は紫の上から赤紫と青紫で鱗が塗り直されてあった。
それは確かに思ったとおり、同じ紫一色よりもよほど躍動的に仕上がっていた。けれどもあの子が一体どんな思いで、仕上がっていた絵に色を重ねたのか、あの子の横顔を思い浮かべるとわたしの心はふさいだ。
職員室での放課後の業務はあまりはかどらなかった。小テストの採点は赤いサインペンが何度も止まるし、来週から始まる保護者面談の事前準備も行き詰まった。
こんな日は何をしたってうまくいかない。今日はもう帰ろうと机の上を片付け始めた。
隣の沢原先生から声がかかった。
「今日はもうおしまいですか」
「ええ」
「早いですね。何か用事?」
「いえ、別に。ただちょっと疲れたので」
「そうですか」
わたしが席を立つのとほぼ同じタイミングで、沢原先生が腰を上げた。
「僕も終わりました。そこまで一緒に帰りましょう」
彼の背中について職員室を出る形になった。廊下を歩き、玄関で靴を履き替え、すっかり日が暮れた校舎の通用門から外へ出た。
この頃、朝晩は冷える。薄手のコートをわたしは胸の前にかき合わせた。
沢原先生はわたしよりも厚手のコートを着ている。寒がりだと確か前に言っていた。
「寒くなりましたね」と肩をすくめる彼に、「ええ」と小さく呟く。
住宅街を並んで歩いた。駅まで向かう足がつい早くなった。
「やっぱり何か用があるんですか?」
「ありません。冷えるのでつい」
二人で歩いている姿を誰かに見られたくない気持ちもあった。このあたりに家族と住んでいる生徒もいる。あの子もそう。
「さっきの龍の絵」
沢原先生が突然言った。
「いいと思いますよ、コンクールに出すの」
「はあ」
わたしの反応が予想と違ったのか、沢原先生は意外そうな声を出した。
「片岡先生、それで迷ってらっしゃるんじゃないんですか?」
「え?」
「なんだか元気がないみたいだから」
わたしは驚いて沢原先生を見た。歩調がつい緩んだ。
「そんなふうに見えますか?悩んでいるように」
「見えます。片岡先生わかりやすいから」
「わかりやすい?わたしが?」
まわりからは大抵、いつも無表情で何を考えているのかわからないと言われる。わかりやすいなんて言われたのは初めてだった。
「絵のことでしょう?」
沢原先生が畳みかけてきた。
「……ええ、まあ」
「コンクールとは関係ない?」
「それはあんまり」
「聞かせてくださいよ。何があったんですか?」
薄暗く静かな道のり。沢原先生の声がやさしく響いた。
少し間をおいて、わたしは口を開いた。
「よけいなことを言ってしまったんです。あの絵を書いた生徒に」
わたしはすべてを打ち明けた。
あの子の個性をもっと引き出したい。味を出してほしい。そう思って口にしたアドバイスに、あの子が傷ついてしまったかもしれないということ。
これがきっかけであの子が絵を嫌いになったらどうしよう、という自分の心の不安まですっかり吐き出してしまった。
沢原先生は話を聞き終えると、急に笑い出した。わたしは面食らった。
「真面目だなあ、片岡先生。大丈夫ですよ、そんなのは」
「そんなのって」
「その子のために言ったんでしょう?その子の絵がもっと素敵になればいいと思って。大丈夫、ちゃんと通じてますよ。片岡先生の愛はその子に届いてます」
「愛」
思わず反復した。
「愛がこもっていれば、どんな言葉だって相手にあたたかく届きます。その子はきっと先生に感謝してますよ。絵を描くための新しい技術を教えてもらったんだから」
「そうでしょうか」
「そうに決まってます。さっきの絵、あんなに生き生きしてたじゃないですか。もし片岡先生に言われて嫌々塗り直したんなら、あんないい絵になりませんよ」
沢原先生は自信満々にそう言った。わたしを慰めるためでなく、心からそう確信しているらしかった。
彼はこういう気質なのだ。明るくて堂々としていて、生徒からも保護者からも慕われている。担任になってほしい先生の第一位が彼なのだ。
「コンクールに出すといいですよ。きっと入賞します」
あたりがすっかり暗くなり、ぽつんぽつんと立つ街灯だけではわからないけれど、きっといま彼は笑っているのだろうと思った。
うらやましい。きっと毎日楽しくて、悩みなんかひとつもないんだろうな。
味があるってこういう人をいうんだと、心の中に思ったことがうっかり口からすべり出た。
「味がありますね、沢原先生は」
「そう?どんな味ですか?」
「どんなって言われると困るけど……悪くない味です」
「いい味?」
「そうですね」
言ったあと思わず苦笑した。わたしは人を褒めるのが下手だ。
「沢原先生みたいな性格に憧れます。みんなに気さくで明るい人」
「片岡先生もいい味出してますよ」
「わたし?」
「うん。生真面目な性格。あなたのいいところです」
「自分ではあまりいいと思わないけど」
「僕は好きですよ、真面目な人。逃げずに向き合って考える人」
逃げずに向き合って考える……そう言われると真面目も悪くない気がしてくる。不思議だ。
「それぞれ違う色を持ってるから、一緒にいて楽しいんだと思いますよ。たとえば僕が気楽な赤で片岡先生が真面目な青だとしたら、ちょうどいい紫になってるはずです。いま」
「いま?」
「そう。ここらへんが」
沢原先生がわたしたちの前の空気を、手でかきまわすようにした。
「そうかしら」
「はい。いい具合に混ざってます」
いい色に馴染んでいるように、わたしの目にも少し見えた。
駅前の通りが近づいていた。明かりの数が増え、互いの顔がよく見える。
改札口に続く階段の手前でわたしは彼に礼を言った。
「ありがとうございました。話を聞いていただいたおかげで心が軽くなりました」
「ご丁寧にどうも」
からかうような彼の笑みに、自分の生真面目さが可笑しくなった。
「やっぱり固いですね、わたし」
「そういう先生も必要です」
別れる間際に沢原先生が言った。
「大丈夫。片岡先生、いい味出てますよ」
電車の中は暖かかった。あの子の顔がふと頭に浮かんだ。
わたしはあの子に自分を重ねている。紫の龍と言われて、紫のチューブ一色で丁寧に鱗を塗ってしまうあの子に、もっと自由に表現してほしいと願っている。紫はほかにもあるんだよと、本当は自分に向かって言っていたのだ。
世界はもっと自由なんだよ。自由に振る舞っていいんだよ。自分の好きな色を使って、君だけの画用紙に君の絵を描けばいいんだよ。
電車が止まった。
降車駅の名がアナウンスされているのに初めて気づき、急いでドアの出口に向かう。
間に合わずにドアが閉まった。まわりの人の視線が気になる。バーを握ったまま顔をうつむけた。
『大丈夫。いい味出てますよ』
うつむいたわたしの顔がさらに赤くなった。
(おわり)
この記事が受賞したコンテスト
最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。