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「うちの子」

 越してきたときから気配はあった。
 ベランダの左の端。
 エアコンの室外機が置いてある、その奥の狭い隙間のあたり。

 最初は鳥かと勘ぐった。鳩やカラスがマンションのベランダに巣を作ることがあると聞く。小枝や葉っぱや鳥の羽根をここに集めてこられては厄介だ。洗濯物を干したり取り入れたりするたびに左隅の暗がりを覗き込んだが、室外機が作る暗い影に巣ができる様子はなかった。

 鳥でないなら何だろう。野良猫の休息場にでもなっているのか。狭くて暗いその隙間は、いかにも猫が好みそうではある。
 現状何か具体的な被害を被っているわけではないので、時々覗き込んでみるだけで放っておいた。
 しかし確かに気配はするのだ。室外機の影を覗き込む私の目を、じっと見上げる何かがいる。

 夜の10時を過ぎた頃、インターフォンが鳴った。モニターを確認したら、見覚えのある顔が映っていた。確か左隣に住んでいる人。

 通話ボタンを押して、はい、と応答した。
「夜分にすみません」とその人は言った。「そちらのベランダにうちの子が入っちゃったみたいで」
 隣人はカメラに向かって、ペット用のキャリーケースを掲げて見せた。
 呼びかけても戻ってこない。捕まえたいので上がらせてもらえないかと言う。

 見かけたら挨拶を交わす程度の仲だった。こんな時間によく知らない人を部屋に入れるのにはためらいがあったが、このまま放置しておくわけにもいかない。
 このマンションはペットの飼育が禁止されている。穏便に済ませたいのだろう。

 私は承知して玄関のドアを開けた。すみませんと何度も頭を下げながら、隣人は遠慮がちに部屋の中へ入ってきた。まっすぐにベランダの前まで行くと、カーテンの左端をほんの少し右へ寄せ、室外機の置いてあるあたりを窓越しに覗き見た。

「見えますか」と背後から私は訊いた。
「暗いのでよくわかりませんが、いることはいるようです。ベランダに出てもいいですか」
 どうぞと言うと、隣人はひらりとカーテンの向こうへ消えた。鍵を開ける音がして、ごく細めに右へスライドした窓が素早く閉められた。

 ◯◯ちゃん、と名前を呼ぶ声が小さく聞こえた。◯◯ちゃん、◯◯ちゃんと、繰り返し根気よく呼びかけている。怒ったりしてごめんねえ、◯◯ちゃんの嫌がることもうしないからねえ、おうちに帰ったらおやつあげようねえ。

 ガタン! と大きな音が鳴り、しばらくしてから窓が開いた。カーテンの向こうから現れた隣人の顔は驚くほど白く、明らかに憔悴した様子だった。

「捕まりましたか」と私は尋ねた。
 隣人は弱々しく頷くと、ふらつく足で玄関に向かった。「大丈夫ですか?」と背中に思わず声をかけた。隣人は振り向かず、呟くような声で言った。
「久しぶりに、触ったので」

 隣人が手に提げているペット用キャリーケースの、格子状になった扉の奥を私は覗き見た。暗くて姿ははっきりしないが、確かに気配がある。僅かな息遣いも聞こえる。

 玄関でサンダルに足を入れた隣人が、私のほうを振り返った。
「どうも夜分にお騒がせしました。もう部屋から出さないようにしますので」
 息も切れ切れにそう言うと、左の部屋へ帰っていった。

 翌朝ベランダに洗濯物を干しに出た私は、左の端の室外機の裏を、おそるおそる覗き込んだ。

 気配はもう消えていた。

 しかしそこには確かに昨日まではなかった、糊のように赤黒い染みがべっとりと付着していた。 

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。