見出し画像

古い文芸作品との新たなる出会い

まったくただの自己満足のために、スタエフで細々と朗読を続けている。著作権に慮って、「青空文庫」の収録作品という括りを自分に課している。世の中には便利なサイトがあるもので、朗読時間の目安を教えてくれる「ブンゴウサーチ」が私の頼りである。

この中から「5分以内」に読み終えることのできる作品を選んで読んでいるのだが、私の朗読ペースが遅いので大抵7分ほどかかる。5分で終わるよう、自分では急いで読んでいるつもりなので、収録後に表れる7分近い数字には毎度驚かされる。

誰にも頼まれぬ朗読だが、続けているうちに自分にとって楽しい発見がいくつかあった。発見というよりも、意外な作品との出会いと言ったほうがいいかもしれない。それらを少しここで紹介したい。


フランツ・カフカの『家長の心配』。読んですぐ惹かれた。

「オドラデク」という”糸巻きに似た謎の生物”を可愛がる家長の物語。家の屋根裏や階段や廊下にいて、話しかけるとたまに挨拶くらいはする。よその家に行っているのか、数ヶ月も姿を見せないこともある。

「君の名前はなんていうの?」と、私たちはたずねる。
「オドラデクだよ」と、それはいう。
「どこに泊っているんだい?」
「泊まるところなんかきまっていないや」と、それはいって、笑う。ところが、その笑いは、肺なしで出せるような笑いなのだ。たとえば、落葉のかさかさいう音のように響くのだ。これで対話はたいてい終ってしまう。

この小さく孤独なオドラデクが、自分が死んだあとも一人で生き続ける様を想像し、家長は胸を痛めるのだ。

私はカフカの『変身』もとても好きだが、このオドラデクが出てくる掌編をさらに愛する。朗読を通じて知った作品の中で、この物語をいちばんに気に入っている。


朗読する作品を選ぶ上で、基準になる条件のようなものが、この頃自然と私の中に生まれてきた。それは、「耳で聞いて楽しい話」である。だから、子どもに読み聞かせるために書かれた童話はとても読みやすい。文章に楽しいリズムや会話があるからだ。

しかし私の朗読の目的はあくまで「文芸作品を読む」ところにある。最初に読んだ作品に、夏目漱石の『硝子戸の中』を選んだのもそのためだ。童話ばかりを読むわけにはいかない。

読んでみて楽しいけれども、聞くぶんにはどうかと思われる作品はずいぶんある。例えば佐藤春夫の『最初の訪問』。

これは、芥川龍之介を初めて訪ねた20年前を思い起こして書かれたもので、初出は昭和9年になっている。芥川は昭和2年に亡くなったから、没後7年めに編集者からの依頼で書いた原稿なのかも知れないが、その随筆の冒頭で佐藤は露骨に自分の弟への怒りを露わにしている。なぜなら、芥川から貰った手紙を弟が返してくれないからだ。

某年某月某日――この日づけは當時の彼の手紙を見ればはつきりわかる。その頃の手紙は二通か三通――全集にも未收のものが保存してある――ただ北海道にゐる弟が珍重して持つて行つてしまつて返却しない。手もとに置く必要があると幾度も言つてやるのに今だに返却しない。甚だ困る不都合千萬である。この男は何でも人のものを欲しがつて困る。本號にもこの手紙のうつしでも提供すれば有益なのに、それが出來ないので、腹が立つて來るのである。(この切り拔きを愚弟へ送りつけてやるつもりだ。)

大勢の人が読む誌面上に弟の悪口をこれだけ書きつけているのだから、怒りは相当のものだったろう。切り抜きを送られた弟は、しかしおそらく手紙をまだ返さないのに違いないと想像する。

こういう話を読んで私は思わず笑ってしまうのだが、いきなり兄弟喧嘩から始まる随筆が朗読向きかと言われると少し躊躇してしまう。文章の間に棒線(ーー)が多いのも、リズムが狂って読みにくいのだ。よって、面白いが却下となる。

一方で、あまりに美し過ぎるがゆえに朗読をためらう作品も少なからず存在する。橋本多佳子の『椎の実』などは、その最たるものだった。

初めて知った名前だが、歌人らしく言葉や表現に見慣れぬ漢字が入り混じり、描写が格調高いのだ。

私は時折句を作りに奈良の森林へゆく。大抵ひとりだからあまり奥へは行けず、近くで静かな人気のない森や谿をいくつか知つてゐて、冬にはあの森と川、春は馬酔木林と辛夷の美しい樹林、夏は、秋は、とそれぞれ好むところを持つてゐるのである。この日もぶらりと一人出かけた。若宮の御祭の翌日なので人一人ゐず、広い参道は昨日の塵を女人夫が掃除してゐるだけ、右手の飛火野へ外れて出ると一面の芒野で、ほほけた穂が日にふちどつて燦いてゐる。けふは男女の群もゐない。それはよいのであるが、子供が来ないのが淋しい。詩興も湧かない。鹿苑を横切つて森の中に入り、いつもの馴染みの木々の間に立つ。

こういった作品は、ぜひ目で読んで楽しんでほしいと、勝手ながら思ってしまう。プロの朗読家ならこの世界を再現できるだろうが、素人の私ではまるで駄目なのだ。歯が立たない。

しかしそれでも読んでみたいという思いが勝り、歯が立たないながらも今朝読んだ。漢字の読みや節の区切りなど、普段はやらない下準備までして読んだ。公開するときは、目で読むことを強く勧めると注釈を入れるつもりだ。

私が朗読を始めたのは、好きな文学作品を声に出して読むことで、より深く味わいたいとの思いを抱いたからだった。それがいまでは、新たな文学との出会いを楽しむ場にもなっている。

作品には人が現れる。100年近くも前に亡くなった文筆家に、いまの自分と変わらない人間味を見出すことほど愉快な喜びはない。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。