躍動する自分

やくどう

私はこの言葉が大好きだ。

その瞬間が自分の生で満ち満ちている気がするし、

周りの空気もこうぐるっと、輝いている気がする。

けれど、当の本人の中は、満足していなく、なにかを追い求めている状態な気がする。

そんな気がこの二文字には詰まっている気がする。

初めて躍動を感じたのはいつだろう。メロスを読んだ時。

いやあれは あまりにも 押しつけがましい 躍動だった。

でも以来、私は躍動を知覚できるようになり、毎年箱根駅伝では涙を流す。ポロポロと。

つい先日も、現代アートのような、いわゆるコンテポラリーなんちゃらというような演劇を見た。4人の男女が動きまわり、飛び跳ねて、何かを言う、ライブ。

 見ている途中は、理解が出来ない正しい鑑賞も分らない、でも周りは吟味するように真剣に見ていて、一斉に笑うこともあって、私もまぎれようと笑ってみたら、私しか笑っていない。そこからは、とにかく時間が長くて、お寺の坊主のお経を聞いているくらい長くて、つらかった。

そんなこんなで待ちに待ったフィナーレ。4人は息が弾んでいたが、輝いていた。その時、また、私は「躍動」を感じ。とてつもなく、彼らに憧れた、

なんだか、ベットに縛られた結核患者のような日記になって、反省。彼らの劇のセリフを一部引用して

私は、今いま、ここ、地球、ここ、足立区北千住きたせんじゅうの隅、コンクリート、コンクリートのうえ、つまりは、砂と水。砂と水のうえ、

躍動に憧れている。

おしまい

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